伯耆 | 尾高城 |
ファイルNo4081 |
@ おだかじょう |
道案内 | |||
米子自動車道の米子インタで下ります。米子自動車道入口の信号で右折し国道9号線に入ります。約500m先の米子東インタの信号を右折し県道53号線に入ります。 約500m先、尾高の信号で、その約120m先が大山入口の信号で、左折し県道24号線を進みます。約400m先を右折し、やや登り道を約400m先の右手が城跡です。 |
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訪城備忘録 | |||
2024年2月に国史跡になったとの事でしたが、本丸と二の丸は私有地との事で立入禁止でした。雨の日と言う事もありましたが、動き回れず、かつ、主要部に立入禁止でテンションは下がりました。各郭を空堀が巡り、城跡の南東端の南大首郭にきちんとした土塁(復元工事はされたんかな)が残るという感じです。国史跡は鎌倉期から長い間の年代に使用された城という事なのかもしれませんが、遺構はそこまで面白いものではなかったというのが正直なところでした。 |
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発掘調査で鎌倉期の遺構がある事から鎌倉後期には在地の豪族の城はあったとされます。 室町期に入り、山名氏の家臣の行松氏(幸松氏)が城主でしたが、大永四年(1524年)に尼子氏に攻められ落城し、尼子氏は吉田光倫を入れました。永禄五年(1562年)、毛利氏の尼子氏攻めの中で行松氏は城を奪還しましたが、翌年死去し、城には杉原盛重が入りました。天正十二年(1584年)、吉川氏は吉田肥後守元重を入れました。 関ケ原の戦い後に中村一忠が入城しましたが、慶長七年(1602年)、米子城が完成し、尾高城は支城となりました。元和元年(1615年)の一国一城令で廃城になりました。 |
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