伯耆 | 米子城 |
ファイルNo3150 |
ふたつの天守(大天守・小天守)を持った城
@ よなごじょう |
道案内 ←本来の駐車場のある登り口 | |||
米子自動車道米子インタから国道9号線米子バイパスを島根方向に進みます。安来道路の米子西インター手前の米子西インタの信号で右手へ進みます。約800m先の陰田町の信号で右折します。約2.5km久米町の信号で左折します。50m先で左折し300m先右手の二の丸桝形からも登れますが駐車場がありません。久米町の信号で左折してから道なりに1kmほど進んだ湊山公園に駐車場があり、そこから登るが良いようです。 私は前者で登りましたが・・・。 |
|||
訪城備忘録 | |||
雨の上がった夕方に訪城しました。 二の丸桝形から入ったんですが、大変広い桝形でまずは驚かされます。それより登り、中腹に内膳丸のある尾根に至ります。内膳丸は二重の門を構えたようで、石垣列が二重になってました。 本丸側を見上げると発掘調査中でしたが、不完全ではありますが登り石垣の斜面があります。ところどころに石垣が残っていました。主要部に登りきると右手に大天守、小天守の天守台をもった本丸石垣が迫るような迫力であります。本丸石垣は三段になっていて、小天守石垣がすーっとした高石垣なのになぜ?という感じです。小天守下を廻り込むと本丸虎口にあたる鉄門桝形に至ります。大変大きな桝形です。これを登りきると本丸です。 本丸も相当に広く中海も望めます。天守台からは米子市内が一望でき、晴れていれば大山も見えるそうです。搦め手側に下りて行くと水の手門石垣も迫力があります。さらに下ると、こちらも発掘調査されてましたが、石垣の残る箇所がありました。 元々は戦国後期の城ですが、すでに近世城郭の風格に江戸期に入って改修しながら完成された城です。大天守、小天守がある城はありますが、それはその形で構築されたもので、さらに、熊本城の宇土櫓も宇土城の天守だったと言われたり、彦根城の西の丸櫓も小谷城の天守だったと言われますが、いずれも移築。元々、そこにあった天守(現:小天守)の横に大天守の新造というのは珍しいです。本丸周囲の石垣群、眺望を加えて、迫力がありました。 2024年10月、前回のリベンジで快晴の城跡に再訪しました。しかし、夕方でしたので、やや暗いです。登り石垣は草ぼうぼうでほとんどわかりませんでした。天守台から、夕方の大山、中海の夕陽を見てきました。特に搦め手側は草ぼうぼうでしたのが、やや残念です。 |
|||
|
元々は応仁元年頃に山名宗之によって飯山に飯山砦が築かれたのが始まりのようです。天正十九年(1591年)に吉川広家が湊山に米子城を築城を開始ました。この時に三重四階の天守を築いています。慶長五年(1600年)、広家は米子城の完成前に岩国に転封、中村一忠(中村一氏の嫡子)が入封、米子城の築城を続けます。最初は尾高城に入りますが、完成した慶長七年(1602年)に米子城に入りました。 その際、広家の天守の横に四重五階の天守を築き、広家の天守は小天守として使われました。慶長一四年(1609年)、一忠が急死し、中村家は無嗣断絶しました。慶長十五年(1610年)、加藤貞泰の領地となり、元和元年(1615年)の一国一城令でも廃城にならず、元和三年(1617年)、貞泰は伊予大洲に転封、鳥取藩の池田光政の領地となり、一族の池田由之が入りました。寛永九年(1632年)、池田光仲が鳥取藩藩主となり、米子城には荒尾成利が城代となり、以後、明治維新まで荒尾氏が代々城代を務めました。 |
溝口インターそばから見た大山 |
近くの城・関連の城: