道案内 |
山陰自動車道鳥取インタを下り、鳥取インタの信号で右折し国道29号線に入ります。 約2km先の信号で左折し国道53号線に入ります。途中、山陰本線を越えて、約5.4km先、県庁前の信号で左折します。約600m先、鳥取城跡の信号で右折します。200m先でやや右手に行き、すぐに左折し水堀を越え、左手に県立博物館の先の右手に模擬門があり、ここより城内に入ります。 山上の丸へは八幡社の所から登り口があります。
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訪城備忘録 |
台風接近の中に訪城しましたが、小雨程度でしたんで、山上の丸まではなんとか行けました。 現在見る鳥取城は江戸初期に大改修された総石垣の城です。県立博物館向かいの城門を入り少し行くと左折し石段を登ると山下三階櫓に続く裏御門との石垣、角櫓の石垣そびえています。上の段に登ると山に向かって登り石垣が残ります。幕末に構築されたものだそうです。そのまま進むと、山下の丸の二の丸です。右手に三階櫓を見ながら左手山麓は石切り場になってます。まっすぐ先には菱櫓があります。山上の丸には石切場の横の神社祠から登って行きますが、菱櫓の向かいには表御門の石垣が二重桝形状に残ります。 上へ上がると天球丸ですが、天球丸下石垣沿いに歩いて行くと、半円状の石垣である天球丸の巻石垣を見ることができます。この巻石垣は背後の石垣の崩落を防ぐために江戸期後期に構築されたものらしいですが、今見るものは復元です。 現在、大手門から中ノ御門、表御門周辺などが建物復元などで工事中でした。 その道沿いにある太鼓御門の石垣、楯蔵下の宮部時代の石垣、三階櫓石垣を下から見上げるなどを見落としました。 ^^; 山上の丸へは八幡社そばから山道を登ります。○合目ちかの表記がありますが。40分ほどけっこう急な山道です。山中には当時のものなのか石垣と郭のような平坦地も認められます。山頂下で道は石段になります。尾根まで登ると右手が山上の丸の二の丸です。二の丸には休憩所があります。左手は本丸です。石段奥に天守壇があり、天守台の西下を見ると出丸の石垣が見えます。この本丸からは鳥取砂丘も見え、太閤ケ平も望めます。この山上の丸も二の丸の先の三の丸の先にある東坂の上の城門の石垣、さらに先の外神砦と竪堀を見落としました、まぁ雨の中で、夏草も多い時期でしたの訪城でしたし、見落としは致し方無しでした。^^;
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復元城門
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築城時期は定かではないようですが、天文年間(1532〜55年)<天文十四年(1545年)?>に因幡守護の山名誠通が築城、あるいは、但馬の山名祐豊が因幡山名氏対抗のため築城したとされます。元亀年間(1570〜73年)に武田国信・高信(若狭武田氏の庶子系)が拠点とし改修したようです。高信は因幡山名氏の客将であったようですが、因幡山名氏に対抗し、山名氏を駆逐しました。天正元年(1573年)、山名豊国は尼子残党と結んで高信の鳥取城を攻撃し、これを破って、自らの拠点としました。天正八年(1580年)、羽柴秀吉による第一次鳥取城攻めに至り、豊国は降伏し織田氏に臣従しましたが、その年、毛利氏に追われ、鳥取城を毛利氏の城となり、天正9年(1581年)、吉川経家が城主となりました。 同年、織田氏は再び秀吉が大将となり、第二次鳥取城攻めを行いました。これが有名な「鳥取城の渇え殺し」となります。4ケ月の籠城後、経家は降伏、自刀しました。 この後は秀吉の家臣の宮部継潤が城主(五万石)となりました。関ヶ原の戦いでは継潤の子の長房は西軍となり、東軍に攻められ開城しました。宮部氏の後は、池田輝政の弟の長吉が6万石で入封し、城を近世城郭に改修しました。元和三年(1617年)、輝政の孫の池田光政が32万5千石で入封、寛永九年(1632年)、岡山の池田光仲と領地交換となり、光仲が鳥取藩主となり、さらに城を改修しました。以後、12代、明治維新まで続きました。
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