安芸 | 日山城 |
ファイルNo3504 |
吉川氏後期本城 広大な城域に遺構が残ります
@ ひのやまじょう |
道案内 ←登城口駐車場 ←城跡 | |||
中国自動車道、千代田インタを下り、千代田インタ前を左折し県道5号線に入ります。約600m先の八重バイパス中の信号を右折し国道261号線に入ります。約6km先、国道433号線との分岐、蔵迫中央の信号はそのまま国道261号線進みます。約5km先、右手が円光寺の所で左折します。200mほど入ったところに数台停められる駐車場があります。駐車場から川沿いに山へ進みます。途中、標識、案内板、寺跡などがあります。 その後、川の中(沢)の道を進みます。現時点、道とはいいにくい。沢を進むと城跡方面と浄必寺跡方面の分岐点に至ります。草に埋もれてますが標識はあります。ここが一番わかりにくいです。ここより山へ進みます。一本道ですのでここからは迷わないと思いますが、訪城時12月であったにもかかわらず笹や草の多い状態でした。 または、浜田自動車道の大朝インターを下り、大朝インター前の信号を右折し国道261号線を南下、約5km先で右折が日山城への入口です。 |
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訪城備忘録 | |||
訪城が12月であったんですが、本丸、大広間の段、米倉などはまだ草木は少なかったんですが、本丸下の下の段、二の丸付近、馬場、姫路丸などは笹や草が多くて遺構が見にくい状態でした。姫路丸の笹がきつくて北地区(尾根)は断念してしまいました。山上の城郭ですが郭が非常に大きく、居住性を感じる城で、これだけの山城でありながら中世城郭には定番の明瞭な堀切・竪堀がないのは不思議な城です。 さて、城跡ですが、沢の道から山道に入りひたすら尾根を目指します。比高300m以上ですので、さすがにきついな(笑) まずは中城と本丸の分岐点に至ります。中城方面に進みます。石垣通路を抜けると米蔵です。広い郭で周囲を土塁が巡ります。奥へスロープのような土塁があり奥は中城口と表記があります。往時は逆にここが最初の郭だったんでしょう。西側土塁には石積みも残ります。戻って尾根を進むと中城・築地という郭です。中城の中心のようです。北側土塁には石積みも残ってます。坂虎口のようなスロープがあり、上の段郭は真ん中に土塁で区切りがある構造です。北側に一段高い郭(7の郭)が付属していました。やや西側へ登っていきます。広い大門の原があり、北側の高いところに姫路丸があります。姫路丸から北尾根の郭群に行けるようですが藪がきつくて断念しました。 大門の原からさらに進むと大きな窪地の郭で大広間の段・池の段・中門と表記されています。居住性のある郭です。西側を残して削り込んでいる感じに見えます。西の削り残しの土塁通路を左手に進むと馬場と表記のあるピークの郭です。手前に堀切と表記した箇所がありますが、?という状況です。馬場も藪藪ですが、眺望はいいです。戻って土塁通路を右手に行きます。切岸にわりと規模のある石垣を見ながら郭に入ります。土塁で仕切られた複数の郭があるのですが、藪がきつくて見学はしにくいです。箇所には石積みが残ります。この地区は下の丸・二の丸・中の丸と表記されてました。最後の登りを登ると本丸です。大変広い土壇状の郭です。西側が一段下がって帯郭のようになってました。土塁とがない平坦地で大広間に比べると風がきつそうです。ただ、眺望はよいですね。 帯郭から西に降りていくと左手が出丸・南櫓、右手は三の丸方向になります。出丸は低い土塁が巡っている感じです。こちらも眺望はいいです。戻って三の丸への細い道を行きます。三の丸で振り返ると本丸の切岸がそびえた感じです。 三の丸の西斜面、西櫓の南斜面に石垣が残ってます。特に、西櫓の斜面の石垣は石も大きく、7段ほど残っているのですが、どうしてこの部分だけ残ったんだろうという感じです。いつ崩れてもおかしくない感じですが、毛利氏独特の石垣の積み方をしているのか長石を牛蒡積みのように奥に突き刺しているのかなと思わせる感じでした。この石垣は見所でしたが、斜面が急なため注意が必要です。 さすがに吉川氏の本城という巨大さでした。また、比高300m以上にこれだけの城域を構築するはすごいと思います。ただ、あまりに高すぎるのか整備がイマイチ進められない感じで少し残念です。でも、戦国をそのままに残すでいいのかな。 |
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築城時期は定かではないようです。城域の一部が砦程度の城郭施設があったと思われますが、本格的な城郭になったのは天文十九年(1550年)に吉川元春が本拠地とした前後ではないかと言う事です。天正十年(1582年)に元春が隠居し、元春館に居を移したのちは元長、広家が当主となりました。天正十九年(1591年)、広家が月山富田城に移封になり、日山城は廃城になったとされます。 |
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