備後 三原城



ファイルNo1611

城跡に新幹線駅が乗っかる

                            本丸(天主)石垣と内堀

@ みはらじょう 
  別名  

A住所:三原市館町1丁目
B目標地点:JR三原駅
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:駅・市街地

F遺構等:郭、石垣、水堀、移築門、碑、説明板
G時代/人物:戦国期/小早川氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  JR三原城周辺

J撮影・訪問時期:2006年10月・2016年03月
            2018年12月

  

道案内 

三陽自動車道の福山西インターから国道2号線バイパス(約24km)で来るか、尾道インターから県道55号線を経由(約16km)して入るかで三原市内に入ります。中之町の信号8ランプ)で国道2号線バイパスからでは左に下り信号を左折します。県道55号線ではそのまま直進になります。 神明大橋西詰の信号を右折します。500m先左手が三原駅と三原城本丸遺構がある場所です。

訪城備忘録

城の石垣の上に新幹線ホームがあり、新幹線が走りぬけて行くという超めすらしい城跡です。奇跡的に残っている本丸の一部と内堀、石垣はきれにな扇形状のため天守台と思ってしまいますが、本丸の一部で御殿があったことから天主台とここでは呼ばれるようです。 駅構内のも石垣は残っていてまるで駅の土台にされているように見えますが、高架駅はまったく石垣には自重を掛けていないとの事です。天守台には駅の外から入るんではなく、駅構内2Fから入ります。市内には舟入櫓石垣や移築門など点在しますが、市街化の中で大半が消滅している状況です。逆によくこの本丸石垣の一部と内堀の一部が残ったもんやと思えますね。

説明板と碑
歴史

新高山城を本拠とした小早川隆景が、天文年間(1532〜55年)に水軍のための三原要害を築き、それが元となって、永禄十年(1567年)、三原城として築きました。その後、天正八年(1580年)頃から拡張され、現在残る本丸の一部は天主台と呼ばれますが、天守の構想は無かったようです。本丸から梯郭式に南、東西へ二の丸、三の丸と広がり、北側の桜山にはかつて城があった所を甲の丸として整備し詰城の機能を持たせたようです。天正十年(1582年)に隆景は新高山城から三原城に本拠を移しました。さらに、天正十三年(1535年)、隆景は豊臣秀吉より四国征伐の功により伊予を与えられ、天正十五年(1587年)には九州征伐の功で筑前を加増され、名島城に本拠を移しますが、三原城は維持されました。文禄四年(1595年)、家督を養子の秀秋に譲り、隆景は三原城に戻り隠居しました。慶長二年(1597年)に隆景が亡くなり、関ヶ原の戦い後は福島正則が領する事となり、三原城には養子の福島正之が入りました。元和五年(1619年)、福島氏が改易されると紀州より浅野長晟が安芸に入り、三原城には筆頭家老の浅野忠長ー忠吉が三原城に入り、広島城の支城として明治維新まで続きました。

本丸石垣と内堀
桜山から
三原駅構内の石垣
夜の本丸石垣
夜の本丸石垣
舟入櫓石垣
舟入櫓石垣
  
本丸石垣
舟入櫓石垣
中門跡
一番櫓跡

近くの城・関連の城:桜山城