安芸/ 新高山城



ファイルNo2010

小早川隆景一代の城

    本丸   

@ にいたかやまじょう 
  別名 

A住所:三原市本郷町本郷
    旧:豊田郡本郷町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀切・竪堀・説明板
G時代/人物:戦国期/小早川氏
H満足度:
凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓の駐車場から40分


J撮影・訪問時期:2008年10月

  

道案内 ←登城口

JR三原駅から国道2号線を8km先、本郷大橋東詰の信号で右折し県道33号線に入ります。500m先、本郷橋東詰の信号を左折し本郷橋を渡ります。渡ってすぐに右折します。1km先左手に登場口と30m先に城跡用の駐車場があります。 < また、高速道で来る場合は山陽自動車道の本郷インタを下り、県道82号線を左折します。1km先、船木大橋東の信号を右折し県道33号線に入ります。4km先が本郷橋東詰の信号です。>
 
訪城備忘録

麓から山を見ると山頂に突出した岩山が見えるため、城域としては狭いのかと思いましたが、奥が深い山で高山城に匹敵する山頂の領域を持っていました。新高山城はT字というか卍字に近い形状の縄張りと感じます。登城用の駐車場が完備しているのはうれしいな。

登城口から山に入りますと、すぐに大きな説明板があり、そこから谷筋を登って行きます。番屋まで570mと表示してありましたが、20分程度、比高で100mほど登ったところでしょう。三段の段郭があり、それも案外広く、これだけでも堂々としたもので、諸所に石垣の痕跡も残っています。その上は匡真寺跡です。手前の堀切には芸備地震で落下した大石が転がっていました。この寺跡には塀跡の石列や庭園跡の大石などを見ることができます。ここから最後の急坂を登ります。中の丸手前の虎口石段を登ると主要部の尾根で、中の丸(二の丸)となります。右手に進むと本丸方向、左手は西の丸・北の丸方向です。本丸下の斜面には崩壊はしていますが石垣の石が散乱していて、一部が残っています。この上が本丸で、ここも広い領域です。本丸には建物礎石と思われる石が並んでいました。

この先端が詰めの丸の岩場で麓から見える岩山の箇所です。本丸から北に下りると釣井の丸で大きく二段になっていて、井戸が六ヶ所残ります。ここに城内で一番残る石垣がありました。西に中の丸の北部分があり、大きな数段の段郭になっています。中の丸から西側に石弓の郭、西の丸、北の丸及び西の丸から南西に下がる段郭が連なります。本丸・中の丸周辺に比べ技巧的な郭ではありませんが、随所に石垣の痕跡もあり、西の守りという実践的な郭郡でした。この城は郭間が機能的に連結され、近世に近い縄張りを持っているとは感じますが、ただ、それでもなんで高山城を廃する必要があったのかなとは感じます。高山城は各郭は大きくとも、二つの尾根を連結できないというところで、力が分散してしまうと考えたんでしょうかね? 沼田川を挟んて対峙するふたつの城は、中世城郭ファンにはたまらん城ですね。

城跡遠景
歴史

天文二十一年(1552年)に小早川隆景は新高山城を築き、高山城から移りました。隆景は、天正十三年(1585年)には豊臣秀吉の四国征伐後に伊予三十五万石となり湯築城に入りました。さらに、天正十五年(1587年)、九州征伐後には筑前・筑後及び肥前一部の五十二万石を与えられ立花山城に入り、天正十六年(1588年)には名島城を築きました。文禄三年(1594年)には秀吉の甥の秀秋を養子に迎え、文禄四年(1595年)に家督を秀秋に譲って三原に隠居し、慶長元年(1596年)に隆景の隠居所として三原城が整備され、このころ新高山城は廃城になったとされます。

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本丸下石垣                  釣井の段の石垣
現地案内板より                 高山城よりの遠景
  
城跡よりの眺望

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