伊予/ 湯築城



ファイルNo1485

伊予・河野氏の本拠

                            内堀

@ ゆづきじょう 
  別名 

A住所:松山市道後町1丁目
B目標地点:道後温泉・道後公園
C形式:平山城  D比高:30m 
E現況:公園

F遺構等:郭・水堀・土塁・石積み・碑・説明板 
G時代/人物:南北朝期/河野氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  10分

J撮影・訪問時期:2006年05月・2015年05月

  

道案内 

松山自動車道松山インタを下り、国道33号線に左折して松山市内中心部に向かいます。3Km先の天山の信号で国道は右折です。1.2Km先の小坂の信号で左折し国道11号線(伊予バイパス)に入ります。2.4Km先の勝山の信号は直進し、県道188号線に入ります。750m先の上一万の信号を右折し、1.2km先の右手が道後公園(城跡)です。

訪城コメント

道後温泉の前の公園です。東西300m、南北400mほどの広さの公園の中心に30mほどの小山があり、これを巡るように内堀、郭、土塁、外堀が巡っています。小山には三段ほどの郭跡を残し、頂上は展望台となっていて松山市内、麓の復元地区を望めます。その他の明瞭な遺構はないようです。麓は発掘調査後に復元整備されていて、武家屋敷なども復元されています。道後と言えば温泉ですな。これが楽しみでした。^^V

復元土居
歴史

築城時期は定かではありませんが、建武年間(1334〜37年)に河野通盛(河野通有の八男)が築城したと伝わります。河野氏の本拠として200年以上続きました。河野氏は内紛が絶えない家であったようで、来島村上水軍が離脱するなど弱体化し、土佐の長宗我部元親との争いにも家臣が徐々に離反し、十三代河野道直の時、天正十二年(1584年)には長宗我部氏に従うという状況であったようです。翌年の天正十三年(1585年)には豊臣秀吉の四国征伐の際、小早川隆景によって落城、河野氏は滅亡しました。小早川隆景は伊予三十五万石にて湯築城に入りましたが、天正十五年(1587年)に筑前に移ると、福島正則が入り、国分山城に本拠を移して湯築城は廃城になりました。慶長七年(1602年)に加藤嘉明が伊予入封し、松山城に築き、湯築城の石塁など転用されたと伝わります。




現地案内板より

道後温泉本館の夜と朝


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