武蔵 | 神奈川台場 |
ファイルNo3483 |
@ かながわだいば |
道案内 ←台場公園側 ←星野公園側石塁遺構 | |||
東京川崎側から来ると、第一京浜の滝の橋の信号を左折します。200m先を左折し、100m先の右手が台場公園です。首都高速神奈川1号線では東神奈川インタを下りることになります。JRでは神奈川駅から東で直線距離600m、東神奈川駅から南へ直線距離で800mくらいの位置です。 |
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訪城備忘録 | |||
元々は船溜まりであったところに台場公園があり、そこから線路側へ路地を行くと、台場の石碑と民家の陰に隠れた感じで石垣があります。 JR貨物の操車場の反対側、星野町公園側にも石塁が露出していて、こちらにも石碑と説明板があります。 また、神奈川駅のそばに神奈川台場を造営する際に土取りで削られてしまった権現山城(現:幸ケ谷公園)があり、権現山の戦いの古ぼけた説明板のみがあります。また、神奈川駅の反対側の高島台にある本覚寺から高島山公園は青木城がありました。権現山城と青木城は一体の城ともいわれているようです。本覚寺は幕末の時に横浜港開港に伴いアメリカ領事館が置かれた場所でその石碑があります。山門はその時に白いペンキで真っ白に塗られたらしいです。今は元に戻ってますが。さらに、幸ケ谷公園の南側(神奈川駅そば)の甚行寺には「フランス公使館」の石碑が建ってます。 2019年、神奈川台場には関係ないですが、わりと近くの三渓園を訪ねてみました。ここには二条城、伏見城などの移築建物があります。 |
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安政六年(1859年)、幕府の命により伊予松山藩が勝海舟の設計の元、台場建設を開始し、翌、安政七年(1860年)の六月に竣工したものです。明治三十二年(1899年)に廃止になるまで、一度も使われることはなかったものです。その後、順次埋め立てられ、台場の面影は失われています。 |
権現山城 3590 神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷 幸ケ谷公園 |
別名:神奈河城・神奈川城 築城時期は定かではありませんが、長享の乱(1487〜1505年)の頃に山内上杉氏(顕実)がこの城を築城したともいわれます。永正年間(1504〜21年)初頭は扇谷上杉氏の家臣で相模守護代の上田蔵人政盛が城主でした。太田道灌が文明十八年(1486年)、扇谷上杉定正に謀殺された後に相模守護代には上田正忠が収まり、正忠の子が政盛です。永正七年(1510年)、伊勢宗瑞(北条早雲)は上田氏を寝返られました。これに対して、扇谷上杉朝良と山内上杉憲房は共同で2万の兵で権現山城を攻め、10日間の戦いの後落城させました。この戦いで上田氏の動静は不明になりました。しかし、後に武州松山城に北条方の上田朝直が入りますが、この朝直は政盛の子か一族と考えられるとの事です。 |
青木城 3591 神奈川県横浜市神奈川区高島台 本覚寺 |
築城時期は定かではありませんが、大永年間(1521〜27年)〜天文年間(1532〜55年)前期に久米氏が築いたようです、久米元興が城主であったとされます。久米氏は元興の父の元益が伊勢新九郎(伊勢宗瑞=早雲)に仕えた北条家の古参でした。元興の子の元忠は天正十八年(1590年)の小田原の役の際に上野国で討死、同じく、長定は山中城(三島)で討死したとされ、この時に廃城になったようです。 |
三渓園 横浜市中区本牧三之谷58 |
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