武蔵 武州松山城



ファイルNo1554


                2001年撮影(主郭と二の郭の間の堀)  

@ まつやまじょう ▽
  別名 

A住所:比企郡吉見町南吉見
B目標地点:吉見百穴
C形式:平山城  D比高:60m 
E現況:山林・田畑・宅地

F遺構等:郭・堀・碑・説明板
G時代/人物:室町期/上田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  吉見百穴の封車場から15分

J撮影・訪問時期:2001年09月・2009年10月

  

道案内 

関越自動車道の東松山インタで下り、国道254号線を川越方面に進みます。2.8km先の上野本の信号を左折し国道407号線に入ります。2.8km先、本町1丁目の信号右折し県道27号線に入ります。2.8km先、橋を渡ってすぐを左折、300m先二又を斜め左に進むと、吉見百穴の駐車場です。城跡は南側の丘陵の上です。県道まで徒歩で戻ると登城道の案内があります。
 
訪城備忘録

県道沿いの登城道から登って行くと笹郭を右上に見ながら竪堀状の箇所を登り、太鼓郭手前で主郭へと入ります。ここの見所は丘陵上にある各郭を独立させて各郭を巡る深い空堀です。空堀は各郭を巡りながら堀は繋がっていて複雑な模様のようになっています。

主郭
歴史

築城時期、築城者は定かではないようです。古くは古代城まで遡るようですが、鎌倉期末<正慶二年(1333年)>に新田義貞が鎌倉幕府を攻めるときの陣所として、応永六年(1399年)に上田左衛門尉友直の築城、応永二十三年(1416年)に上田上野介の築城などが考えられるようです。天文六年(1537年)に扇谷上杉朝定の拠点となりましたが、天文十四年(1545年)の河越の野戦で上杉朝定が敗死して、城は上杉氏から北条氏康に属することとなった上田朝直が居城としました。永禄四年(1561年)には上杉謙信が城を奪い、太田資正を城代としました。永禄六年(1563年)には北条氏が再奪還し、上田氏の居城となっていました。天正十八年(1590年)の豊臣氏の小田原城攻めの際、城主上田憲定は小田原城に詰め、留守居を山田氏らが勤めましたが、前田利家らに攻められて落城しました。徳川家康の関東移封の際、松平家広が一万石で入封しましたが、慶長六年(1601年)に松平忠頼が浜松に転封となり、松山城は廃城になったとされます。

2001年撮影
2001年撮影
2001年撮影
現地案内板より(クリックすると大きくなります)            主郭手前    
主郭と二の郭間堀
春日郭北側堀                 二の郭南下堀
春日郭南下堀                 三の郭  
  

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