道案内  |
山形自動車道の宮城川崎インタを下り、信号を右折し県道14号線に入ります。約1.2km先、荒川のバス停ちゅかくで右折します。約1km先で高速道路の下をくぐり、約400m先右手に説明板があります。大手道は説明板の所から約100m手前の民家の間の道の奥にあります。車の場合は説明板からすぐを斜め右に入り、約100mくらいの右手上に東屋と搦め手の登り口があり、数台停められます。
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訪城備忘録 |
マニアにはわりと有名ですが、一般にはあまり知られていない城跡ですが、遺構は驚愕のものでした。聞いてはいたけど、すごい!の一言です。
今回はまずは搦め手から入りました。 すぐに西端の二重空堀が目に飛び込んできます。北側が高く、ゆるい堅堀のように落ちているように見えますが、幅も深さもすごいです。 搦め手道を進むと右曲がりの枡形虎口です。土塁の障壁ですが、けっこう立派な虎口です。この上が二の郭端になります。二の郭の東端を進んで大手方向にいったん下りてみました。
大手道は麓の道にある説明板の北側、民家の間を抜けた先の民家の裏手にあります。一段の上に登ると左側が切岸状、右手は斜面沿いに土塁があり、左上へ向かって円弧状の道が続いています。登りきると道は左に90度曲がります。坂虎口になっていると感じました。この上に枡形虎口があり、さらにもう一つ枡形虎口があり、石積みの痕跡も残ります。主郭(本丸)手前はL字の郭で主郭との間は深い空堀になってます。主郭側は高い土塁です。 虎口部の土塁は平虎口状になっていて、往時は木橋で手前の郭と繋がっていたと思われます。このL字の郭、標識には馬出しと書かれてましたが、東側には土塁があり、L字の飛び出し部分で下の枡形虎口に横矢がかかります。
主郭(本丸)は奇麗な土塁が北側を除き巡ってます。北側下は立野川への崖になっています。土塁の一部に石積みの痕跡もあります。土塁の外側は同様に西側、南側にも空堀が巡ります。この空堀は南側でさらに東に伸びて、馬出しの郭、枡形虎口の横まで伸びていて、主尾根の虎口、馬出しの導線と反対側の二の郭(丸)の南部との区画分けにもなっている感じです。虎口は馬出しから入る東側と二の郭(に繋がる南側の二か所になります。
二の郭(丸)は搦め手の虎口を境に土塁が伸びていて主郭(本丸)堀のところまであります。結果、二の郭(丸)をこの分断するような土塁で二の郭(丸)は東の区域と、南から西側へL字形状になる区域になります。主郭(本丸)もそれなりに広いですが、二の郭(丸)は東二の郭(丸)と南から西にL字に繋がる二の郭(丸)<西郭>を合わせた二の郭(丸)全体は主郭(本丸)の2倍以上ある感じです。主郭(本丸)と二の郭(丸)の配置は梯郭式っぽいです。訪城時、二の郭(丸)西側に小さな花を付けた植物が群生してました。なんの花やろ?
この城の最大の見所でしょうね、二の郭(丸)の外側を西側から南側にある巨大な二重空堀(一部三重?)です。深くて幅もあり、最初に目に飛び込んできたら声が出ます。二重堀切の北側は間の土塁も幅が広く、土塁頂部にも浅いですが空堀状になっていて他の巨大な空堀には見劣りしますが、三重の空堀に見えます。二重空堀が続く途中、南西側の林に入るとそこにも空堀がありました。少し距離があるので三重空堀とは言い難いですが、大きく見たらここの部分も三重空堀でしょうかね。
最後に大手側の隣の水田の向こうの立野川沿いに荷揚げ場と呼ばれる上下に郭が配置され周囲を土塁が巡る箇所があります。これは荷揚げ場と呼称されているようです。
巨大な二重空堀、うまく二重の堀を同時に明瞭に見える形で写真が撮れませんでした。それだけ幅があって高くて巨大です。城跡としてはすごい遺構でした。二重空堀には圧倒されます。いいものを見たという感じです。日没近くに来たため、川崎要害、小野城など近くの城跡には行けませんでした。
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麓の説明板
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築城時期は定かではないようです。伝承では前九年の役(1051〜1062年)で安部貞任が入った川崎柵(中ノ内城)で戦いが行われたとの事です。(南朝元号)延元年間(1336〜40年)<北朝:建武三年・四年・歴応元年〜三年>、菅原摂津守常重は砂金邑に入って砂金氏(いさご)を名乗り、本砂金城(砂金城)を居城としたようです。
戦国期に入り、砂金氏は伊達氏に従いました。天正五年(1575年)、砂金氏八代の常久は前川本城に移ったとされます。しかし、前川本城は巨大な城ですので、砂金氏単独の城とは考えにくく、伊達氏主導で築城されたか、当初は主郭(本丸)程度の単郭の城で、その後、伊達氏が大改修した城ではないでしょうか?
慶長十三年(1608年)に十一代常房が川崎城(川崎要害)を築いて移りました。この頃に前川本城は廃城になったと思われます。
砂金氏は元禄十五年(1702年)まで川崎城に居住しました。一国一城令以降は川崎要害と呼ばれました。最後の当主の重常が後継者がないまま亡くなったため砂金氏は無嗣断絶しました。享保七年(1722年)、伊達村栓(むらあき)が二千石でこの地に入り、川崎伊達家として明治維新まで続きました。
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