甲斐/ 新府城



ファイルNo1564

勝頼渾身の城ながら、未完の城

        本 丸   

@ しんぷじょう   
  別名 

A住所:韮崎市中田町
B目標地点:藤武神社
C形式:平山城  D比高:60m 
E現況:山林・公園

F遺構等:郭・堀・土塁・馬出・碑・説明板
G時代/人物:戦国期/武田氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場から10分

J撮影・訪問時期:2002年01月・2010年05月
             2016年04月

  

道案内  ←駐車場

中央自動車道の韮崎インタを下り、県道27号線を進みます。2Km先が七里岩トンネルでトンネルを抜けるとすぐに左折し坂を登ります。途中のT字を左折し県道17号線に入ります。3.5Km先左手が城跡です。城跡を越えたところの右側に駐車場があります。
 
訪城備忘録

2002年に訪れた日は、冬の快晴の日、城跡からは富士山も見える日でした。2010年は新緑眩しい季節の訪城でした。城跡は大きな郭が三つで構成されています。本丸は150mの50m程度の大きさで周囲を土塁が巡ります。西側(七里岩側)に行くと二の丸への大きな枡形虎口があり、ここを越えると本丸下の腰曲輪を越えて二の丸です。本丸ほどの大きさでは無いですがそれでも広い。やはり周囲を土塁が巡ります。二の丸の南側中央の虎口から馬出になります。林道で半分破壊されているのと草木が伸びすぎていて少し分かりづらいです。林道をさらに下りると左手が三の丸です。この三の丸は本丸の匹敵するほどの大きさですが、中央に仕切土塁が横たわり、東西に分けた曲輪となっています。今は周囲を林道が通りますが、往時の登城道は、二の丸馬出しからシトミの構え(本丸南下の曲輪)の下を通って三の丸の東の曲輪に繋がっていたようです。東三の丸から大手門側に進むと大きな平虎口の土塁が見えます。この大手門二重の門になっていて、大手一の門と二の門の間に虎口の空間があります。枡形ではないですが、近世に近い構造です。その先は馬出しで、その下に大きな三日月堀がありました。全体としては石垣はありませんが、規模の大きな土の平山城であり近世城郭に近い縄張りです。この城、西側は七里岩の断崖、東側は今は麓を県道が南北に通っているため県道の上がすぐ本丸ですが、往時はこのあたりは大きな池であったようで、その延長線上に北側に幅のある水堀と出構えを備えて北側の防備をし、南側に向けて主要曲輪が展開されていました。ただ、武田氏滅亡後に、徳川氏の改修もあったでしょうし、城としての全体的機能は北の能見城(のうけんじょう)の防塁と合わせて考える必要があるようです。

2016年04月の夕方、軽く主要部を廻ってきました。 桜がまだ残っていました。

二の丸
歴史

天正三年(1575年)の長篠の戦いで大敗した武田勝頼は、多くの重臣を失い、勢力は大きく衰退し始め、穴山信君(梅雪)の進言もあり新城を築くことを決めて、普請を真田昌幸に命じて新府城の築城を開始しました。勝頼は城が未完成のまま天正九年(1581年)の年末には躑躅ケ崎より移りましたが、天正十年(1582年)に入ると織田信長の甲斐侵攻が開始され、木曽氏など離反が相次ぎ、勝頼の弟の仁科盛信が守る高遠城も落城したため、3月に勝頼は新府城に火をかけ、小山田信茂の岩殿城に向かいましたが、信茂も離反し、勝頼は天目山で嫡男信勝らとともに自刃し、甲斐武田氏は滅亡しました。その後、武田遺領は徳川氏と後北条氏の争奪戦となり、新府城は徳川方の重要拠点となりましたが、天正十八年(1590年)の後北条氏滅亡後に廃城となりました。

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西出構遠望
現地案内板より
大手
大手を馬出し側から
三日月堀                        大手を横から
二の丸
本丸
新府藤武神社          県道反対側
東出構
2002年訪城
現地案内板より          二の丸
本 丸            西三の丸
大手門付近土塁
丸馬出し

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