大阪の城001  

                                                                               

茨木城  1820
搦手門(茨木神社移築)
移築門の位置⇒
搦手門(移築・内側から)

復元門
A茨木市片桐町
B茨木小学校
名神高速道茨木インタからすぎの畑田の信号で府道14号線に入り、茨木駅方面進みます。2km先の中穂積の信号で左折し、府道139号線を進みます。1.3km先の信号で左折し、500m先左手が茨木小学校です。この周辺が城跡です。学校の門に櫓門が復元されています。また、茨木神社に搦手門が移築されています。茨木小学校の住所が片桐町ちゅうのも歴史を感じますな。

C平城
F遺構等:移築門・復元門 
G期/氏 
H満足度:凸
建武年間(1334〜37年)に楠木正成によって築かれたとされます。のが始まりと言われる。足利尊氏の室町幕府が確立されてからは茨木氏が代々居城としたされます。元亀二年(1571年)、茨木佐渡守が城主の時に荒木村重らに攻められて落城し、天正五年(1577年)に中川清秀が七万石で入城しました。中川清秀は賤ヶ岳の戦いで戦死し、清秀の子の秀政は三木城へ移りました。慶長六年(1601年)、片桐且元が一万二千石で入城しましたが、元和元年(1615年)の大坂の陣の後、茨木と大和龍田の四万石に加増を受けましたが同年没しました。孝利は大和龍田へ、且元の弟の貞隆は大和小泉に別れ、茨木城は廃城となりました。
J訪城:2008/01
安威城  1819
碑と説明板
A茨木市安威2丁目
B安威小学校
名神高速道茨木インタを下り、国道171号線を京都方面に進みます。1.2km先の西川原西の信号を左折し、府道46号線に入ります。900m先の名神高速道下の信号(耳原交番前)でやや右手方向に府道は進みます。1.6km先、(安威南口のバス停の500m先)で左折し、台地に登ります。安威小学校の東側の南北道路沿いに左折しm少し進むと道沿い左側に旧の集会所のような建物前に碑と説明板があります。この東側などの竹やぶは外郭になり、土塁ものこるようですが、よくわかりませんでした。城の遺構としては、近くの安威砦の方が見所が多いです。

C丘城
F遺構等:土塁・石碑・説明板
G鎌倉期〜/安威氏 
H満足度:凸
築城年代は定かではありませんが、鎌倉末期には安威氏はこの地の土豪であり、その頃には城は築かれていたと考えられます。一説には、大永年間(1521〜27年)に安威摂津守弥四郎が築城したともされます。

J訪城:2008/01
   
穂積砦  1821 
碑と説明板
A茨木市中穂積2丁目
B中穂積春日神社・中穂積公園
名神高速道茨木インタからすぎの畑田の信号で府道14号線に入り、茨木駅方面進みます。2.1km先の西駅前の信号で右折し府道129号線に入ります。700m先、名神高速道のガード手前の信号で右折し、クランク状に進み、高速道沿いを進みます。300m先で道は左カーブで名神のガードをくぐり、すぐの信号で右折します。100m先で右折し、再度名神をくぐると右手が池で左手が丘になっています。この丘にある中穂積の春日神社が城跡です。 神社一帯は郭跡のようにも見えますが、遺構なのか定かではないです。

C丘城
F遺構等:郭?・説明板・碑 
G−−期/−−氏 
H満足度:凸
詳細不明
J訪城:2008/01