越後/  春日山城



ファイルNo1501

上杉謙信の居城

                 本丸(実城)から天守を見る 

@ かずがやまじょう 
  別名 鉢ケ峯城 

A住所:上越市中屋敷春日山
B目標地点:
C形式:山城  D比高:170m 
E現況:公園・山林

F遺構等:郭・堀切・竪堀・土塁・井戸・碑・説明板
G時代/人物:南北朝期/長尾氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  春日山神社駐車場から25分

J撮影・訪問時期:2004年05月・2019年08月

  

道案内 ←城跡の麓入口

北陸自動車道の上越インタを下り、国道18号線を直江津駅方向に進みます。約800m先の三田の信号で左折します。約3km先で妙高はねうまラインの春日山駅の横を通り。さらに約1.2km先の信号で左折し県道180号線に入ります。約600m先の春日山町の信号で右折し、約1.2kmほどで春日山神社です。
 
訪城備忘録

春日山全体が城郭という感じの巨大な山城で、戦国五大山城の山城でありますが、華やかさはありません。2018年の豪雨で崩落個所が何カ所かできて、その後に修築されて見学には支障はないんですが、一部に通行不可があります。登城ルートとしては謙信像からつづらの道を登り三の丸、二の丸を経由して主要部を見学するか、春日山神社の右手から尾根道を登り、直江屋敷を経由して本丸(実城)に向かうか、麓の大手道からひたすら登り、柿崎屋敷を経由して主要部に入るかになるかと思います。 山上は南から柿崎屋敷、景勝屋敷、鐘楼、大井戸と進み、天守、本丸(実城)が頂点で、東側中腹に二の丸、三の丸(景虎屋敷)、米蔵などがあります。景勝屋敷の南下の堀や本丸背後の大井戸は巨大です。本丸(実城)から北に向かっては、護摩堂、諏訪堂、毘沙門堂、お花畑郭、直江屋敷となり、春日山神社に向かって千貫門などの郭と良く残る空堀(堀切)が見られます。春日山神社下には御屋敷があります。この城は、巨大ではありますし、超有名な城ですが、基本は連郭式の古い形の城と言えます。屋敷名もどこまで史実にあるのかなと疑問を持ってしまいます。例えば、天守とは言わんでしょうねぇ。 但し、上杉氏の後に入った堀氏がどこまで改修したかはありますが。春日山城は本城だけでなく、周囲の砦をも包括した城と考えるべきと言われます。その砦のひとつが東城砦です。 東側麓には林泉寺があり、春日山城の移築と言われた惣門がありますが、残念ながら台風で倒壊し、古材を利用して復元されてます。このお寺には上杉謙信の墓所(供養塔)があります。宝物館の展示物はんっ?というのもありますが、なかなか面白いです。東城砦は春日山城の北東に位置し、発掘調査を元に土塁、堀などが復元され、中心部は土塁と堀立柱建物が再現されています。 少し離れた場所に景虎が籠った御館がありますが、今は公園となり、碑と説明板があるのみで遺構はありません。 ※ 郭名は現地案内板に従います。

空堀
歴史

築城時期は定かでは無いようですが、越後守護代長尾氏(高景)が南北朝時期に鉢ケ峯城として築城したのが初めのようです。その後、長尾為景(謙信の父)が永正七年(1510年)に春日山城に根小屋を構えて以後、天文十七年(1548年)に景虎(謙信)は兄の晴景に変わり家督を継ぎ、永禄三年(1560年)には本格的に築城を開始、天正元年(1573年)には実城など全体が完成したようです。この間、永禄四年(1561年)に景虎は上杉家の名跡を継ぎ、上杉政虎と改名し、その後、謙信と号しました。天正六年(1578年)の謙信死後は御館の乱を経て景勝が後を継ぎましたが、慶長三年(1598年)、会津に転封となり、後には堀秀治が入封しました。堀忠俊は新たに福島城を築城し、慶長十二年(1607年)に移り、春日山城は廃城となりました。

景勝屋敷下堀切      本丸と天守の間の堀切
千貫門近くの深い堀切
現地案内板より
謙信像
中腹より主要部を遠望
本丸よりの眺望
 
井戸      米蔵の土塁
土塁       空堀
大手道      二の郭
  
三の丸・景虎屋敷
米蔵土塁
米蔵土塁を上から        三の丸・景虎屋敷を上から
二の丸
景勝屋敷を下から     柿崎屋敷を遠望
景勝屋敷下堀切
柿崎屋敷
小島屋敷碑     南二の丸碑
南二の丸から景勝屋敷方向
景勝屋敷
鐘楼下堀切
鐘楼
鐘楼からの眺望
大井戸
本丸と天守の間の堀切
天守から柿崎屋敷遠望
天守           天守から二の丸を見る
本丸
本丸北下
      毘沙門堂跡       不識院跡に建つ毘沙門堂(復興)
お花畑切岸     土塁
直江屋敷
北側から中腹を見る      郭の切岸
搦め手空堀
千貫門
深い堀切
春日山神社      御屋敷
林泉寺惣門
林泉寺山門       上杉謙信供養塔

東城砦 3587 
上越市大字大豆(春日山城史跡広場・ものがたり館)

別名:春日砦・東条砦  平地は監物堀と言われる春日山城の惣堀と土塁を発掘調査に基づいて復元されたもので、奥の丘の上に東城砦があります。監物とは堀監物直政のことで、堀氏の家老です。平地は堀氏が入封して築かれた居館跡です。東城砦は春日山城時代からのものと思われます。砦内も土塁が復元され、掘立柱建物が再現されています。

復元の掘立柱建物        土塁
復元の堀
復元の土塁
復元地区全景

御 館おたて 3588 
上越市五智1丁目22(御舘公園)

天文二十一年(1552年)、北条氏の圧迫で越後に逃れた関東管領の上杉憲政のために弘治年間(1555〜58年)、長尾景虎(上杉謙信)によって築かれたとされます。天正六年(1578年)に謙信が急死した後の家督相続の戦いである御館の乱が発生し、上杉景虎はここに籠りました。翌年、春日山城の上杉景勝は御舘を攻撃すると上杉憲政が和睦の使者として春日山城に訪れようとしますが、景勝方に討たれてしまいました。景虎は北条氏を頼って落ち延びようとしますが、鮫ケ尾城で自刀しました。

石碑       説明板

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