相模 / 後北条小田原城



ファイルNo1446


                            城山(小峯鐘ノ台東堀)の長大な堀切

@ ごほうじょう・おだわらじょう ▽
  別名 小田原古城・小早川城

A住所:小田原市城山3丁目・南町4丁目など 
B目標地点:小田原高校・城山陸上競技場 
C形式:平山城  D比高:20m 
E現況: 宅地・山林

F遺構等: 土塁・堀・説明板
G時代/人物:戦国期/北条氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2002年04月・2006年05月

  
空堀

【道案内】 

城山には小田原駅の西口側、県道73号線の城山中学入口の信号、あるいは城山競技場入口の信号から坂を登ります。500m先で、小田原高校を過ぎたY字を左の細い道に入って行った300m先に大きな堀跡が残っています。城山陸上競技場の南西側の位置です。
  


【現況・訪城記録】

城山には長大な空堀(堀切)と土塁が残ります。また、早川口には二重の土塁を施した(二重戸張というらしいです。)遺構が残ります。そのほかに後北条小田原城の総構えの遺構としては、稲荷森の総構堀や連上院の土塁などが残っています。



【歴史】

伝承では平安末期に土肥氏の一族の小早川氏(毛利氏の家臣となった小早川氏の祖先)が居館を置いたのが始まりといわれますが定かではなく、応永二十四年(1417年)に大森氏が相模に進出し、城を築いたと考えられます。明応4年(1495年)<明応五年以降という説もあるようです>に、伊勢新九郎盛時(宗瑞)<=北条早雲>が、大森藤頼を追い小田原城に入城したとされます。その後、北条氏を名乗った氏綱、氏康、氏政、氏直と後北条氏の本城として拡張されて行きます。永禄四年(1561年)の長尾景虎(上杉謙信)、永禄十二年(1569年)の侵攻を籠城で凌ぎました。これらの経験から、総構の構築がなされ、日本では珍しい城下も取り込んだ城郭都市に発展しました。天正十八年(1590年)に豊臣秀吉に攻められ、三ヵ月後に開城し、後北条氏の滅亡しました。(滅亡と言っても、氏直は助命され(氏直はその後病没)、また、氏規(氏政の弟)の系統が大阪狭山に一万一千石で大名として残り、明治維新まで存続しました。


  
城山の土塁
  
早川口
     
  

近くの城・関連の城:

            

早川口の二重土塁