相模 / 小田原城



ファイルNo1445


            復興天守    

@ おだわらじょう 
  別名 

A住所:小田原市城内 
B目標地点: 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・市街地 

F遺構等:郭・水堀・土塁・石垣
     ・復興天守・復興門 

G時代/人物:江戸期/大久保氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場より10分

J撮影・訪問時期:2002年04月・2010年12月
           (2019年08月)


  

道案内 

JR小田原駅の南側200m、あるいは国道1号線の箱根口、御幸ケ浜、三の丸交番前などの信号から入ったところが城址公園です。
 
訪城備忘録

天守をはじめ、銅門(あかがねもん)、常盤木門(ときわぎもん)などが復興されています。石垣も一部を除き、関東大震災等で崩れ、ほとんどが積み直しなどされているようです。天守は元禄年間から明治まであった天守を昭和三十五年(1560年)に外観復興されたもので、最上階の高欄付回廊は展望用に追加されたものだそうです。

常盤木門
歴史

小田原城というと後北条氏ですが、その歴史は小田原古城に記します。近世小田原城は、後北条氏が天正十八年(1590年)に滅亡後、関東に移封された徳川家康の家臣の大久保忠世・忠隣が四万五千石で入りました。大久保氏は城の改修に着手したようです。慶長十九年(1614年)に大久保忠隣が改易され、一時廃城となって破城されたようです。寛永九年(1632年)に稲葉正勝(春日局の子)が八万五千石で入り、子の正則と続き、現在見る近世小田原城に改修されました。貞享三年(1686年)には十万石余りで大久保忠朝が入り、大久保氏が復活し、以後、大久保氏(最終石高:十一万三千石)が明治維新まで続きました。

銅門                       常盤木門
南堀                       銅門
馬出し門
常盤木門                    東堀
天守
三の丸土塁                  箱根口石垣
  
小田原古城総構土塁上から天守遠望
石垣山城本丸からの天守遠望
城山公園からの天守遠望
北側の国道135号線側から
現地案内板より

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