京都の城02  

                                                                               

ちょっと 城とは呼びにくい史跡三箇所です。

二条陣屋(小川家住宅)  1791
表門と説明板

玄関
A京都市中京区三坊大宮町

国道1号線五条堀川の信号から堀川通りを北に1.7kmの堀川御池の信号を左折し(中京区役所の角)御池通りを200m進んだ最初の信号を左折します。角に二条陣屋の案内板があります。100m先の右手です。陣屋前の道は狭いです。予約をしてなかったので中には入れませんでしたが、江戸初期の商家が残るという感じです。どちらかというと草津宿本陣二川宿本陣という感じですかね。

C平城
F遺構等:現存建物・説明板 
G江戸期/小川氏 
H満足度:凸

豊臣秀吉の家臣で伊予今治で七万石の大名であった小川土佐守祐忠は関が原の戦いでは西軍に属したため出家し、その長男の千橘が萬屋平右衛門と名乗ってこの地で米穀商・両替商・木薬屋を営みました。この建物は寛永十年(1670年)に住居として建てられたものです。江戸期、二条城に伺候する中小大名の陣屋として利用され、また、京都奉行所の公事宿として利用されたため、隠し階段や武者隠しなどの身辺警備の施設が施されています。 (現地案内板より)
J訪城:2007/10
  
本能寺  1792
山田町側石碑
施設の中の説明板
蛸薬師通りの碑
本能寺近く茶屋四郎二郎邸跡
本能寺近く南蛮寺跡

阿弥陀寺  
阿弥陀寺の信長の墓
阿弥陀寺近く本満寺の枝垂れ桜
本満寺には山中鹿之助の墓(供養塔)があります。

明智光秀の(首)塚 
京都市東山区梅宮町474
2017年11月訪問 光秀の首塚は
亀岡市の谷性寺  にもあります。

A京都市中京区山田町〜元本能寺南町
B本能特別養護老人ホーム・六角油小路通り

五条堀川から堀川通りを北に700m、四条堀川の信号から四条通りを100m行った次の信号で左折し300m先の右手です。
元は本能小学校があったところですが、今は老人ホームなどの入ったビルになっています。新しい石碑も建ててありました。施設の中庭というかエントランスに古めの説明板がかけてありました。
近くに南蛮寺や茶屋四朗邸の跡の碑・説明板もあります。
C平城
F遺構等:石碑・説明板
G戦国期/日隆上人 
H満足度:凸

応永二十二年(1415年)に日隆上人本応寺を創立しましたが破壊されたため、永亨五年(1433年)に六角大宮の地に移り、本能寺と改称しました。戦火で焼失しますが、天文十七年(1548年)に第八世日承によって再建されました。その後、織田信長の仮宿所となりましたが、天正十年(1582年)六月二日、明智光秀の謀反により織田信長とともに焼失しました。その後、織田信孝によって信長廟が建てられましたが、豊臣秀吉の京都の区画整理によって東京極(現:寺町)<京都市役所の向かい側>に移転しました。
  ←現在の本能寺の場所

J訪城:2007/10・2015/04 他
   
二条殿(二条新造御所)  1793 番外 
両替町通りの石碑

室町通り側の碑
A京都市中京区金吹町〜二条殿町
B京都国際マンガミュージアム・両替町通り
  (旧:龍池小学校)

堀川御池の信号から御池通りを進み、烏丸御池の信号の一本手前の道を左折して100m先の右手玄関前です。この辺は江戸期は金座があったようです。
C平城
F遺構等:碑 
G南北朝期/二条氏 
H満足度:凸

南北朝時代太政大臣を務め,和歌連歌で著名な二条良基の邸宅で,押小路殿とも呼ばれました。邸内には龍躍池があり,その美しさは洛中洛外図屏風にも描かれているようです。信長は天正五年(1577年)に二条家を立ち退かせて自身の京都邸宅とした後、天正七年(1579年)に正親町天皇皇太子誠仁親王に献上し、二条新造御所となりました。天正十年(1582年)の本能寺の変では信長の長男信忠がこの地で自刀し,二条殿は焼失しました。碑のあるところは二条殿御池跡の場所らしいです。

J訪城:2007/10・2015/04