山城/ 城山静原城



ファイルNo1689


                    中間の区画の下の郭の東南下に残る石垣  

@ しろやま・しずはらじょう 
  別名

A住所:京都市左京区静市静原町 
B目標地点:城谷山・静原神社・阿弥陀寺
C形式:山城  D比高:150m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・堀切・竪堀・土塁
G時代/人物:戦国期/山本氏?・明智氏?
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  神社から35分

J撮影・訪問時期:2007年03月・2020年05月

  

道案内  

京都市内中心部より国道367号線で進み、花園橋で国道は右折になります。10Km先の大原上野町の信号で左折し県道40号線に入ります。県道は400m先で左折し、さらに200m先で斜め右に曲がります。2.4Km先が江文峠で、1.6Km先の左手が静原小学校(城山バス停)です。200m先で右折し橋を渡り静原集落に入ります。600m先の静原バス停前で右折し、100m先のT字で左折したところが静原神社、その隣が阿弥陀寺です。静原神社から西側から山頂の城谷山静原城を目指し、そこから東の尾根を下がると城跡です。城域から東側麓から道が案内板に描かれていますが、道というものではなくとりあえずは直降ちゅう感じです。唯一、ライオンズクラブ設置の道標だけがたよりです。 (静原神社から山頂の城谷山静原城を経由し尾根中間の当城を回って麓に下りると約2時間の所要時間でした。) 
  
訪城備忘録

この城は城谷山静原城の山頂(主郭)に設置された案内板からすると二の丸と表現されてます。別の城か一帯の城かよくわかりません。城谷山静原城の山頂(主郭)から尾根を比高で120mほど下りた場所にあります。山頂部もこの城も段郭は広いです。ただ、山頂区域は石段程度のわずかな石積み痕跡しかないですが、ここは諸所に石垣が残存しています。

さて、城跡ですが、北から南へ、尾根先端頂点の主郭とその南側下の郭、中間の区画は上下の郭、中間の区画から段郭が何段かあり、城内で一番広い郭が南の斜面にあり、これが下段の区画です。主郭北側には城谷山へと続く尾根を切断するための大堀切があります。その先には監視の郭のような平坦地と西側斜面に竪堀風の窪みが2条ほどありましたが、遺構かは定かではないです。主郭は堀切側が大土塁となっています。主郭南側下の郭は二の郭相当で東側に大きな窪地があり、内側に石垣があります。水源地のような感じです。この郭の中央に虎口があり、石段風の石が散乱していました。虎口を出ると左右にスロープ状になっていて中間の区画へ下ります。中間の区画は、上下2段と西側斜面に張り出した郭があります。この上下の郭は斜面に石垣が巡っています。下の郭の東側斜面の石垣が大きく残っています。この2段の郭の石垣は街道から見た時の威圧感を与えるというビジュアル的な要素もあったと考えられます。下の郭は大きさから虎口郭的です。下の郭の西側に虎口があり、折れて下段の区画に下りて行きます。下段の区画には城内では一番大きな郭があります。これは兵を収容した兵站基地という感じです。以上、あきらかに城谷山の遺構とは新しさがあり、石垣を多用した城となっていました。

今回は尾根の東側に下りましたが、前回は尾根の西側(集落側)に下りました。先年の台風被害で尾根上も荒れてますが、麓への斜面も特に西側斜面は荒れてます。 訪城にはお気をつけて行ってください。
  
主郭下の郭の虎口と石段
歴史

天正元年(1573年)山本実尚を攻めた明智光秀が築城、または改修したようです。街道を監視する城であったようです。天正十年(1582年)の本能寺の変後に明智氏滅亡時に廃城になったものと想像できます。

  
主郭北側堀切
  東南斜面残存石垣  
現地説明板より(二の丸表記が該城域)
城域より上の尾根上からの眺望
  
大堀切
大土塁
上段郭窪地周辺石塁
上段郭窪地周辺石塁
上段郭
上段から下の郭への虎口
上段から下の郭への虎口石段
上段から下の郭への虎口を下から
下の段の郭
下の段南西の石垣痕
下の段南西の石垣痕
東南斜面残存石垣
東南斜面残存石垣
東南斜面残存石垣全景
    
中間の区画の郭      中間の区画の下の郭の石垣(東側斜面)
中間の区画の上段の郭(三日月状の郭)の斜面に残る石垣とその郭 
窪地の石垣       主郭北側の堀切

近くの城・関連の城:城谷山・静原城