山城 / 勝軍山城



ファイルNo1632

                 主郭(不動院奥の院)   

@ しょうぐんやまじょう 
  別名 北白川城 

A住所:京都市左京区北白川清沢町〜一乗寺松原町 
B目標地点:詩仙堂・狸谷不動院 瓜生山
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林・寺 

F遺構等:郭・堀切・竪堀 
G時代/人物:戦国期/細川氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  不動院本堂前より15分

J撮影・訪問時期:2006年11月・2019年06月

  
尾根上北側

【道案内】 

堀川北大路の交差点から説明しますと、堀川通り(府道38号線)から北大路通りを東に向かいます。2.8Km先が高野の信号で、さらに1Km先が白川通り北大路の信号です。ここを左折し、白川通りに入り、北に向かいます。500m先、の信号で右折し詩仙堂に向かいます。詩仙堂の横を通り、その先の狸谷山不動院まで行きます。大きな駐車場のあるところは不動院の祈祷所で、この右手から本堂へ向かう道があります。本堂への石段下に数台の駐車は出来ますが、駐車していいのかよく判りません。石段を登ると、左手上が本堂です。石段から直進してさらに階段を登ると奥の院に向かう山道があります。(ハイキング道の標識あり) ここを進むと尾根まで登り、尾根を右手に進むと瓜生山山頂です。

 


【訪城備忘録】

本堂に向かう石段はけっこう長く、夕方の訪城だったため、この階段を駆け上りましたら、けっこうきつい階段でした。さらに本堂下から、そのまま山に入ります。ここから尾根までも比高で50mほどあると思います。思った以上に時間がかかりました。瓜生山山頂が奥の院で、ここが城の主郭でもあります。主郭下、西側、東・南側下に何段か削平地はありますが、遺構という感じはしません。登って来て、尾根を北側(左側)に行くと大きな堀切があるようですが、見落としました。

2019年06月
奥の院の主郭からT郭群の西尾根、南尾根、及び主郭東側を見て回りました。これだけでT郭群です。やたらに段郭が多く、南尾根の切岸はわりと高い切岸が続きます。先端部にわりと明瞭な堀切がありました。主郭東側下郭群には空堀・切通の地形がありました。古道には見えますが。この東側尾根と斜面にU郭群からX郭群まであります。たびたびに陣城になったり、改修されたりした城のため、全体像をつかむには通うしかなさそうです。T郭群を終わったところで夕立が降ってきたのでU〜X郭群は次回にしました。

  
【歴史】

永正十七年(1520年)に細川高国が六角定頼の応援を受け、細川晴元に対抗するため京都に攻め登った際に、陣城として使用された事が最初と考えられています。高国は足利義晴・細川晴元に破れ、晴元が実権を握ります。その後、義晴と晴元が不仲になり、天文十五年(1546年)に義晴は細川氏綱と結び、義晴はこの城を修築しました。義晴は劣勢で、城を焼き払い近江に逃亡しました。天文十八年(1549年)には、足利義輝は三好長慶に京を追われますが、翌年の天文十九年(1550年)、義輝はこの城を再築城しますが、三好長慶に破れ、義輝は近江に逃れ、城は焼亡しました。永禄元年(1559年)には、近江朽木に居て京都への復帰を目指す義輝は、三好勢と対峙のため、この城を修築しました。これも、また落城するものの和睦し、五年ぶりに義輝は京都に復帰しました。永禄四年(1558年)には六角氏が三好氏との対峙のため、この城を利用しています。元亀元年(1570年)には織田信長の比叡山焼き討ちのための比叡山包囲では織田信広や足利義昭の手勢が陣地として利用されたとされます。比叡山焼き討ち後には、明智光秀がこの城に入り、比叡山の監視を行ったともされますが、その後は、史料には無く、廃城になったと考えられます。

  
  
狸谷山不動院本堂

主郭説明板
  
T郭群南尾根段郭先端堀切
狸谷山不動院本堂を下から
T郭群西尾根先端からの眺望
  
T郭群西尾根段郭
T郭群西尾根段郭
T郭群西尾根段郭・先端郭
T郭群西尾根先端郭の先=絶壁です^^;
T郭群西尾根先端郭から大文字山(如意岳城)を遠望・山頂下は(右)大文字の火床
不動院への巡礼道にある堀切の痕跡
T郭群南尾根段郭と切岸
T郭群南尾根段郭と切岸
T郭群南尾根段郭
T郭群南尾根段郭と一騎掛け状細尾根
T郭群南尾根堀切
T郭群主郭東側下郭
T郭群主郭東側下郭
T郭群主郭東側下の空堀状(古道の切通かな?)
T郭群主郭東側下の空堀状
T郭群主郭東側下の空堀状の反対側、土塁を伴う郭

近くの城・関連の城:一乗寺山城