越中/ 横尾城



ファイルNo0035
      
                 主要部 二の曲輪の空堀 

@ よこおじょう 
  別名  −−−−−

A住所:下新川郡朝日町横尾・南保 
B目標地点:小川温泉天望閣・長願寺
C形式:山城  D比高:250m 
E現況:山林

F遺構等:空堀・竪堀・堀切・土塁・土橋
    ・碑・説明板

G時代/人物:鎌倉期〜戦国期
  /佐美氏〜普門氏(井上氏)〜上杉氏・佐々氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  長願寺横の駐車スペースより45分
J撮影・訪問時期:2004年08月

  
横尾城主郭
道案内】←登り口  ←城跡

北陸高速道路の朝日ICを降り国道8号線を右折、富山・黒部方面より新潟に向かうと横尾西の信号(横尾の信号のひとつ手前)で右折し、集落に入ります。一つ目の十字路の右側の角に横尾城のイラスト図案内板があります。 この十字路を右折し一つ目の路地を左折し、突き当たりが長願寺です。寺山門前を左に行くと駐車スペースがあり、ここより中部自然游歩道を登ります。



【訪城備忘録】

長願寺は横尾城の居館跡のようです。案内標柱がありました。遊歩道を登り始めるとすぐに左手に八幡社があり、さらに少しの登りまでコンクリート道が続きます。ここまでは車で来れるでしょうが、地元の方の邪魔になりそうですのでやめておきましょう。ここより少々きつい山道を進みますと15分ほどで尾根の下に至ります。道は右にまがり尾根に上がるのですが、左に行くと堀切に出て、その先が百山曲輪です。曲輪跡に登ると夏場で雑草が多すぎて進むことは断念しましたが、先の方にさらに堀切と曲輪が見えました。この曲輪は南北朝期の前期・横尾城の遺構と思われます。戻って尾根に上がり進みますと、鉄塔を越え、さらに登ると公園のように整備された場所にでます。横尾城の遺構としては髪山曲輪となりますが、地元では馬鬣山(ばりょうざん)というようです。これは明治天皇が巡幸された際、この山が馬の鬣に似ているとおっしゃった事から名づけられたようです。(現地案内板より) ここよりさらにアップダウンを繰り返し主郭に向かいます。最後のピークを過ぎ降りたところが主郭です。小さな碑があります。ピークは見張台のようです。 主郭から土橋を越えると広い中曲輪です。ここに現地案内板があります。中曲輪と南曲輪を巡るように横堀があり、その外側に二の曲輪などの郭が連なります。この主要部は明らかに戦国後期の遺構、それも織豊系の遺構と感じます。残念ながら夏場のため遺構は相当草木に埋もれていましたが・・・。この主要部を越えてさらに進むと尾根を下り殿入峠に至ります。その先をまた登りますと広い平坦地に出ます。植林の杉林ですが古くは常盤曲輪の位置と思います。ですが、遺構という感じの平坦地ではありませんでした。片道40分程度の登りで夏場はきついですが、主要部は戦国期の遺構が完存していましたので満足感はありました。


【歴史】

城は越後・越中の国境近くに位置し北側(海側)に張り出した横尾の山にあります。12世紀頃佐味庄の豪族佐美太郎が百山の峠を掘り割し道を通し城を築いたのが始まりです。南北朝(1331年〜1394年)の1337年(建武四年)に越中守護普門(井上)俊清によって南北1.5Kmの尾根の7箇所を堀切で断ち、山を削って六郎山・上百山・扇山などの曲輪を段状の設け越後の南朝勢に備えました。戦国期の1509年(永正六年)、越後守護上杉定実及び謙信の父の越後守護代長尾為景は越後反抗の拠点として城を改修、さらに後には佐々氏が越後の上杉氏に備えるため改修しました。近くの宮崎城とも密接な関係があり両越の攻防の場所となっていました。 (現地案内板より)


  
主郭
二の郭外の空堀
空堀
髪山曲輪 (馬鬣山)  
髪山曲輪 (馬鬣山)
  

近くの城・関連の城:宮崎城  泊城

          

主要部縄張り図
(現地案内板より)
百山曲輪の堀切            百山曲輪