伊豆 鎌田城



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                   東側堀切・土橋・虎口   

@ かまだじょう 
  別名 

A住所:伊東市鎌田
B目標地点:奥野ダム
C形式:山城  D比高:200m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・竪堀・堀・説明板
G時代/人物:戦国期/伊東氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  説明板から30分

J撮影・訪問時期:2010年01月

  

道案内  ←登城口   ←本来の登り口?

伊豆スカイラインの冷川インタを下り、県道12号線を伊東市街へ向かいます。すぐの冷川の信号を右折し中伊豆バイパス(県道12号線)に入ります。12km先、奥野トンネルを越えてすぐを右折すると奥野ダムの駐車場です。この右折地点から100mほど県道を伊東市街方面に行った左手県道沿いに説明板があり、ここより登ります。

または、県道12号線と県道351号線の分岐点である中伊豆BP入口の信号で県道12号線を北上、約800m先の西側対岸に登り口があるようですが、車では県道からは相当に回り込まないといけません。さらに1.2km北上してトンネル手前の橋を斜め左で渡り、渡ったらすぐに左折し川沿いを約800m南下し、右折し細い道を約600m進むと登り口です。 
訪城備忘録

伊豆には2001年に韮山城に行って以来で、念願の鎌田城に行けました。主要部を堀切・竪堀・帯郭(切岸)で防備し、帯郭は横堀に発展する途中のような構造の城で、竪堀・土橋・虎口も明瞭な形で残っていてお勧めの城です。城には県道12号線、奥野ダム近くの奥野トンネルから伊東側に200mほどのところの資材置き場のような箇所から入ります。県道沿いには説明板も設置してありました。

案内標識があるので迷うことはないですが、岩がゴロゴロし、水も流れている沢を中腹まで登り、城跡のある東西の尾根まで登ります。尾根に登ると案内標識はありますが、右手の尾根に進みます。最後は急坂を登りますが、途中、小規模の堀切が認められます。二つ目の堀切を越えるとすぐに大きな堀切があり、明瞭な土橋が残っています。堀切の片方は横堀のように30mほど横に延び、その後90度曲げて竪堀に落ちていました。この二つの堀切の間は馬出とされていますが、よくわかりません。さらに登ると主郭と空堀と書かれた標識があり、空堀側から廻ります。北側尾根を堀切状に切っているのですが、この堀はそのまま東に横堀状に延びています。最終的には東の堀切近くまで行くのですが、途中、帯郭状になっていて、意図的なのか、堀切がただ横に延びているだけなのか、先の北西の堀切同様おもしろいです。東端にも明瞭に土橋・虎口が残り、竪堀も明瞭に見ることができます。主郭東側には広い二の郭、その北側には腰郭が広がりますが、三の郭の削平が不十分です。これだけの城にしてはなんでだろ? 主郭と三の郭の間には鍵状の土塁が残り、神社・祠が建っています。神社の北西側の平場が二の郭のようです。主郭は南側には堀切をはさんで張り出し郭(現:展望台)があり、ここから奥野ダムが望めます。この堀切の西側竪堀も明瞭に見ることができます。主郭の西側下には幅の広い長方形の郭が横たわっており、居住性を感じます。

主郭の説明板
歴史

現地説明板には伊東氏が北条氏の進攻に抵抗した城と記されいます。しかし、これはどうなんでしょうか? 伊東氏は藤原武智麻呂を発祥とする南家で、木工頭となった為憲が工藤氏と名乗り、さらに、子の維職が伊豆に下って伊東氏を名乗ったのが始まりで、源平では平家方であって、いったん伊豆を失い、その後、今川氏に属した後北条氏に属して伊豆を回復したようですから、伊東氏と北条氏は争ってはいないのではないかと思われます。では、この城の城史は、史料が乏しいらしく定かでhないようですが、源氏方で功を挙げた鎌田新藤次俊長が築城したと伝わります。戦国期に入り、北条氏の家臣の朝倉右京進政元が本拠としたようです。遺構はこの頃のものです。

    北側の横堀               北西尾根の堀切と土橋(郭側から)
北西尾根、登山道沿いの小さな堀切2ケ所
北西尾根の堀切と土橋(郭外から) 
北側下横堀
東側の竪堀               二の郭下の帯郭
主郭・三の郭の間の土塁              主郭    
主郭南側の土塁                奥野ダム遠望  
展望台から主郭土塁と堀切を見る           主郭南西下竪堀    
  主郭西下郭             尾根より伊東市街遠望
  
  現地案内板より              奥野ダムより城跡遠望

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