駿河/ 丸子城



ファイルNo1422

三日月堀、長大な横堀が印象的な城

                 主郭と出郭の間の堀切      

@ まりこじょう 
  別名 宇津谷城・鞠子城 

A住所:静岡市駿河区丸子
B目標地点:駿河匠宿
 (車の場合は駿河匠宿の有料駐車場利用200円)

C形式:山城  D比高:130m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀・碑・説明板
G時代/人物:室町期/斎藤氏・今川氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓から20分

J撮影・訪問時期:2003年04月・2019年01月

  

道案内  ←城跡   ←登り口

静岡市内中心部から国道1号線バイパスで来ると、1号線バイパスと旧1号線の合流点の手前の駿河匠宿の信号で右折します。駐車場は国道1号線バイパスの高架の下、右です。この辺は丸子宿ということになるんかな。右手の駿河匠宿の駿河工芸館から約100mほど進みます。駿河匠宿おもしろ体験館の横の路地を入ります。(標識有) 体験館の裏手に出ると城跡は左手に行き、その後は城跡の先端の小さな神社まで登ります。後は主郭まで尾根道を進みます。また、山の反対側の誓願寺の向かいからも登れます。 

訪城備忘録

尾根上に見事な三日月堀、横堀、堀切などが残ります。三日月堀、丸馬出というと武田氏築城術と思ってましたが、丸子城も諏訪原城も今の研究では徳川氏の遺構との見方もあるようです。駿河匠宿から山道を登ると小さな神社のところに至ります。ここに説明板があり、ここより外郭と表記してありました。さらに進むと大きなL字の空堀(三日月堀)に防御された東の郭で、それを抜けると北の郭です。北の郭は今川氏の時の主郭であったようです。西側に土塁があり、その北側の下の尾根に堀切があります。そこから南側へ尾根上に三の郭・二の郭・主郭と並びます。各郭間には堀切があり、各郭が独立しています。主郭は特に大きな郭です。主郭にある説明板には主郭の東側尾根には段郭が5郭描かれていますが行きませんでした。主郭の西下には出郭と呼ばれる郭があります。主郭と出郭の間に明瞭な堀切があり、出郭の北側に巨大な竪堀があって、出郭の西下には明瞭な三日月堀があります。さらに出郭下から始まって北の郭下までの西側下を長大な空堀が横たわっています。

2019年1月に再訪しました。ずいぶん昔に訪城したため記憶が断片的だったのでもう一度じっくり見学したくて再訪しました。当時は武田氏系の城やと信じてましたが、最近の研究では今見る遺構は徳川氏の改修のものという説もあるようです。徳川氏は武田氏の築城術のいいところを吸収して進化させたんでしょうか。西側に長い横堀ですから西に対しての防御が厳重なんですが、武田氏なら徳川氏への防御で納得できますが、徳川氏の改修だとどこに対しての防御の強化?どうもわからん^^; いずれにしても横堀が長大なもので圧倒されます。

城跡への入口
歴史

応永年間(1394〜1428年)に今川氏の家臣の斎藤安元が築城したとされます。明応二年(1493年)、今川氏親は駿河館防衛のための支城として拡張したようです。永禄十一年(1568年)に武田信玄が駿河に侵攻し丸子城には山県昌景を城将としました。この時に大改修されたようです。天正六年(1578年)には屋代勝長が城代になりましたが、天正九年(1581年)に高天神城の落城前に徳川氏に開城し、その後は徳川氏の城として存続したました。この後に徳川氏が再改修しているんでしょうか。天正十八年(1590年)の徳川家康の関東移封の時に廃城なったようです。

主郭虎口と土塁    西側下の長大な横堀
現地案内板@より
  
東の郭(大手廓)手前土橋
東の郭(大手廓)手前三日月堀
東の郭(大手廓)手前三日月堀
東の郭土塁
北の郭土塁
北の郭土塁      北の郭の北外側堀切
北の郭の北外側堀切と土橋
北の郭から三の郭方向(二重馬出?)
主郭
主郭西側食い違い虎口<出郭側>     主郭東側平虎口<段郭側>
主郭北側土塁
主郭北側枡形虎口
二の郭と主郭の間の堀切
二の郭から主郭     二の郭から西下横堀
       出郭     出郭への坂土橋
出郭土塁      出郭より主郭
左:主郭・右:出郭
主郭と出郭の間の堀切
出郭の三日月堀と長大な竪堀
出郭の三日月堀
出郭の三日月堀    長大な竪堀
長大な竪堀
西下横堀
西下の長い明瞭な横堀
西下の長い明瞭な横堀
西下の長い明瞭な横堀
西下の長い明瞭な横堀
2003年訪城時
現地説明板Aより
長大な横堀
出郭の三日月堀

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