道案内 ←城跡用駐車場 |
新東名高速道の島田金谷インタを下りた場合は、国道473号を南に進み、約3.6km先の金谷扇町の信号で国道は右折です。国道は約200m先の宮崎町の信号で左折です。約200m先で国道はまた右折です。約1.2km先、金谷駅を越えます。約3.8km先が空港入口の信号です。約400m先の空港入口東の信号で右折し県道233号線に入ります。約4km先を右折し、道なりに約500m先右手が城跡駐車場です。ここから、徒歩で尾根まで約600m登ると城跡です。
東名高速道路からだと相良牧之原インタを下り、信号を左折し国道473号線に入ります。約1km先、Y字を左手に進むと国道473号線の新道の沢水加インタです。約5km先が新道の倉沢インタで、この信号が空港入口の信号です。約400m先の空港入口東の信号で右折し県道233号線に入ります。約4km先を右折し、道なりに約500m先右手が城跡駐車場です。
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訪城備忘録 |
2002年に訪城したものの記憶は薄れていました。伐採整備が進んでいるとの情報でしたので2024年に再訪城しました。
尾根まで登ると城跡が見えてきます。城域のほとんどが伐採されていて登ってきた尾根から谷を挟んだ三の郭の土塁の壁、三の郭側の尾根にあるコブ状の二重堀切が奇麗に見えます。登り道と三の郭が合流する地点に城址碑があります。前回訪城の際は木々の中にあった城址碑ですが今は周囲には木々は無いです。遊歩道は三の郭を西から廻り込むように付いてますが、城址碑の背後に三の郭の虎口がありますので、そこに登るます。三の郭土塁の東側下は帯郭状になってますが、横堀ちゅうことのようです。虎口を越えると三の郭です。三の郭と二の郭も幅のある尾根です。それを削平し、三の郭、二の郭に区画されてます。三の郭の北側は土塁が長く横たわります。三の郭東側尾根にはコブ状の二重堀切が残ります。虎口の西側はすり鉢状で馬洗場という名が付けられています。この西側は出っ張った空間があり、西三の郭とされます。掘立柱の建物跡が平面復元されています。西三の郭の西斜面下に小さな堀切が残ります。
三の郭と二の郭は高く長い土塁で区画されています。この土塁は低土塁で西側から南側へ廻り込んでいます。二の郭東側の大きな空間には掘立柱の建物跡がふたつと礎石建物跡がひとつ平面復元されています。二の郭と東尾根の間には深い谷があり、東尾根の斜面が大きな壁のように見え、コブ状の五重堀切のふたつを臨むことができます。二の郭西側と主郭から北側に延びる段郭との間に規模の大きな堀切が残ります、これに谷が連結し主郭周囲はまさに詰め城区域です。
主郭は東尾根の低地を挟んだ西側高台になります。北側に段郭が上下ふたつあり、下の段はU字に土塁が巡り、二の郭との間の大堀切に面しています。 主郭は二の郭、三の郭に比べて非常に狭いです。南側土塁があり、その南側に堀切があり(現在は遊歩道)、その南に南郭があります。南郭は三角に近い形状で二辺に土塁が残ります。その南背後にはわりと明瞭な小さな堀切と土橋がありました。主郭の西下にも小規模ですが堀切が残ります。主郭と南郭の堀切の端から細道があり堀切まで行けます。遊歩道は南へ続いていますが、これの南郭群の南下は二重堀切になっていたようです。遊歩道で上部が消滅してますが両サイドの堅堀は残っていました。
東尾根は西端に東尾根郭があります。この城の最高点になるかと見えます。ここから二の郭・三の郭が谷を挟んで眼下に広がります。東側尾根はコブ状の五重堀切です。手前のふたつは規模も大きく深さもあります。残りのみっつは小規模ですが確認はできます。五重堀切の先は細長い平坦地になってますが郭かな?その先は尾根が下っていました。
整備されたことによって非常に見応えのある城跡が蘇った感じです。ただ、あまりに伐採されているため、崩落などしないのかやや心配です。
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城址碑
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応永年間(1394〜1428年)、勝間田定長が築城したとも言われますが、勝間田氏は平安末期から鎌倉期にはこの地に勢力を持っていましたのでもっと早い時期かもしれません。鎌倉期は御家人、室町期においても微凝衆であり、幕府方として応永の乱(1399年)、永享の乱(1438〜39年)にも参戦しています。応仁の乱<応仁元年(1467年)〜文明九年(1477年)>において、今川氏と対立し、文明八年(1476年)、今川義忠に攻められ落城し、勝間田一族は四散したとされます。 これ以後、勝間田城は史料に現れないため廃城にはなったとされますが、遺構からはその後も改修された可能性があります。
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