道案内 ←城跡 ←登り口 |
舞鶴若狭自動車道の大飯高浜インタを下り、県道16号線を高浜町中心部に向かいます。5km先でU字の高架で下り、薗部口の信号を右折し国道27号線に入ります。(小浜市の後瀬山トンネルから西へ27kmが薗部口の信号) 約5.5km先の日置の信号で右折し県道21号線に入ります。約2.8km先が難波江の信号で、ここを直進し、県道149号線に入ります。約600m先が白浜トンネルですが、その約100m手前右手が少し路肩が広くなってます。左手に小屋があり、そのそばを山に向かった旧道があります。そこに入ります。道はもう使われていないのでアスファルト道ですが荒れて、落ち葉が堆積しています。U字に登って行き、次の左カーブを過ぎると右手に家電の不法投棄が散乱してますが、その左手の斜面が登りやすくなってますのでここを登ります。支尾根を登って行けば城跡です。
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訪城備忘録 |
この城は最高地の西郭と東に一段下がった東郭(主郭)を中心に東と南の尾根に段郭を配し、西郭と東郭の北側斜面に二重堀切と三重堀切があって、特に中央の連続堀切は深くて明瞭な必見の遺構になってます。便宜上、北側の連続堀切は北西・中央・北東の三つの明瞭で綴ります。
旧道から支尾根を西郭に向かって登って行きます。途中、段郭があるように見えますが、明瞭では無いです。西郭手前の郭は西郭を北側まで廻り込んだ形状のようです。西郭は細長い郭で広いです。削平もしっかりしています。東側から北側に低い土塁が巡ってます。西郭はこの城の最高地なんで主郭はこっちなのかもしれませんが、東郭の方がさらに広いため 資料に従って東郭を主郭と呼称します.。西郭の北西側の郭との段差は1m程度でここに行って、その北側の急斜面を約10mほど降りると北西の二重堀切があります。郭から下を見てもこの堀切は見えなかったです。 堀切は手前側が非常に深く明瞭です。外側の堀切は浅いですが二重堀切の間の土塁も分厚く、麓からの尾根をきちんと遮断してます。中央の連続堀切との間は谷状になっていて自然地形ではないとかもしれません。
北西の二重堀切から斜面を横移動して中央の連続堀切に向かいます。ここは三重堀切と資料にはなってるんですが一番上の堀切を見落としたかもしれません。この二重堀切、ふたつとも非常に深く、真ん中の土塁も分厚く高いです。ここまでの二重堀切はなかなか見られないかもしれません。この東側斜面で郭下側の堀切は分岐した二又竪堀になっている感じで、北東側の連続堀切との間の斜面は北東側連続堀切と斜面上で繋がって落ちている感じに見えます。
北東側の連続堀切は中央の連続堀切より高い位置の支尾根に作られています。幅、深さなどは中央の連続堀切ほどではないにしても両斜面に落ちる竪堀は長く明瞭です。この支尾根を少し下りると墓の基壇のような構築物があり、この先は古道が横たわってるのですが、この古道の切通は反対側との高低差が大きく、大きな堀切に見えます。
再度、支尾根を斜面を登ります。郭に一番近い斜面に堀切があり、不明瞭ではありますが土橋があります。このを郭まで登ると西郭の端に出ます。
西郭の東下には東郭への斜面上に副郭があります。西郭から副郭への通路は桝形虎口に見え、坂虎口な感じです。副郭から斜面を下りると東郭(主郭)です。西郭の倍くらいの大きさで途中に土壇状になった箇所があります。明瞭な土塁は無いです。東尾根には二段ほど段郭があります。東郭(主郭)の南下に下りると南郭・南尾根へと帯郭が繋がっています。東郭(主郭)の切岸が高いです。南郭から東郭を見上げると坂虎口になってるようにも見えます。南郭は西郭の南下という感じの位置で削平はしっかりしています。南尾根には段郭が続きます。最後の斜面手前に堀切が1条ありました。資料では二重堀切とされますが、1条しか確認できませんでした。この南尾根は途中から両サイドは海が見えてます。海に突き出したような尾根になってます。戻って南西の谷側に下ります。南尾根根元下には大穴があり井戸にも見えますが?です。谷筋は段郭状に整地されてますが遺構なのか植林のためのものなのか判断できませんでした。
夏場でしたが下草も少なく大変見やすい城跡で。旧道から登れば比高もあまりなく若狭ではお勧めの城跡ですね。
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歴史 |
城跡遠望
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天文年間(1532〜55年)・弘治年間(1555〜58年)・永禄年間(1558〜70年)の間に大草公広が築いたとされるようです。ただ、文明年間(1469〜87年)に築城されていた可能性もあるようです。大草氏は南北朝期に若狭に入部した室町幕府の奉行衆であったようです。史料には南北朝期の北軍に大草伊豆守の名があるようです。康永元年(1342年)には大草弥九郎、文和三年(1354年)には大草孫十郎公顕の名があるようです。戦国期に入り、文明十五年(1483年)に大草三郎左衛門公友の名があり、天文七年(1538年)には大草三郎太郎公広の名があります。永禄八年(1565年)には織田信長の使者として大草大和守の名があり、大草氏はこの頃には織田氏の傘下であったようです。<資料・福井県史より>
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