道案内 ←城跡 ←寺背後のゲートから ←墓地のゲートを探して直登 |
北陸高速道敦賀インタを下り、料金所を超えて左側に下り8号線バイパスに入ります。2Km先の岡山1の信号で直進し国道27号線に進みます。5Km先の旗護山トンネルを越え、次の佐田トンネルを越えて側道に下ります。県道118号線に右折し、250m先の左手が芳春禅寺です。
@ 本堂を右手に見ながら寺の裏手に進むと山裾がフェンスで囲まれていますが、一か所ゲートがあります。そこから入り、右手の尾根上に登り、尾根を左手へ登って行きますと城跡です。2018年11月、再訪しようとしたんですが、寺背後の斜面はすごい藪でゲートまでとても近づけません。草木が完全に枯れる12月から5月初めまでは可能なのかもしれませんが、少なくとも夏場は無理そうです。
A 本殿を右手に見える麓左側に墓地があり、この背後のフェンスゲートを探して斜面を直登しかないかと思われます。
舞鶴若狭自動車道の若狭美浜インタを下り、信号を右折し国道27号線のバイパスに入ります。800m先で側道に下り、県道118号線に左折します。250m先の左手が芳春禅寺です
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訪城備忘録 |
正直なところ遺構はそう期待していなかったです。ところが、小型ではありますが、土塁で周囲を囲み、その土塁には折れが入っていたる、北側虎口前面には馬出しを思わせる小郭があったり、西側虎口は食い違い虎口もあるなどの工夫、主郭南西側の国吉方面尾根側には今も明瞭な堀切が残り、南東側尾根には兵站用であろう副郭も備えた明瞭な城郭が残っていました。改めて、朝倉氏の築城術の高さを感じる城跡でした。
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国吉城見張り台の碑
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永禄六年(1563年)から始まった朝倉氏による国吉城攻め、これより永禄十一年(1568年)まで続きますが、永禄七年(1564年)に国吉城攻めの付け城としてこの中山の付城を朝倉氏が築城したとされます。 (永禄七年当時の朝倉氏当主は義景) 永禄八年(1565年)、国吉城の粟屋氏勢が中山の付城を夜襲して焼き払い、朝倉勢はいったん撤退しますが、永禄十年(1567年)に中山の付城に代わる狩倉山城を築城し、国吉城の付け城としました。
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