若狭 | 石山城 |
ファイルNo1989 |
@ いしやまじょう |
道案内 ←城跡 ←登り口 | ||
国道27号線小浜市の後瀬山トンネルから西へ約22kmm本郷の信号で右折しU字に高架を登り、県道1号線に入ります。(約27kmの薗部口の信号を右折しU字に高架を登り県道16号線に入るもあります。舞鶴若狭自動車道の大飯高浜インタを目指します。佐分利大橋の信号で左折し県道16号線に入ります。約600m先で自動車道のガードをくぐります。約100m先で旧道の跡があり、城跡の駐車場代わりになってます。 【以前登った西側麓からの直登の記述です。】 佐分利大橋の信号から約700m先で県道1号線は右折で橋を渡りますが、直進して自動車道の橋げたをくぐります。この左手の山が城跡です。城への道が見当たりません。自動車道下から300m先で左折し細い道を山すそ沿いに400mほど進むと細い道の十字路があり、ここを左折します。100mほど進むと、T字で左手へ山に道が続いていますので、ここを進みます。車はこのT字地点付近か、川沿いの道に止めます。 |
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訪城備忘録 | ||
東麓の登城道から登ります。急なつづれ道を登ります。城域の北端に至ります。北端と書きましたが北郭群は自動車道で削られて消滅してます。 (後で資料を見ると削られたところには北東側に一条、北西側に二重堀切があったようです。) 尾根に登る手前に堀切からの堅堀の痕跡らしい窪地が斜面にあります。現北端から主郭に向かって行きます。割りと幅のある段郭が続きます。2023年現在、尾根上郭群、南背後の堀切は発掘調査中でブルーシート、土嚢が多数ありました。主郭手前の一段と大きな長方形の郭が二の郭のようです。その背後が主郭、主郭の背後は高台になっていて櫓台のようで、それに繋がる郭には礎石がある感じです。さらに南に広い郭があり、その先が南支尾根には大きな堀切になってます。この堀切の先にも堀切があり、二重堀切になってます。 南支尾根の二重堀切から斜面を南西支尾根に移動しますとこちらにも二重堀切が残っていました。規模は小さいものです。主郭と二の郭の境目の西側斜面下から北西に伸びる支尾根があり、ここも小規模な段郭が連なり、規模の小さな堀切があるようですが、ここは2008年に登ったル−トではないかと思います。 いったん主郭に戻り、二の郭とその下の段郭の切岸付近の東斜面を下りると東支尾根です。昔の資料では二の郭とその下の段郭の境目くらいから道があったようですが、今は見当たりません。この斜面、急斜面の上に木々がまばらで小石と砂地の斜面のため、下りるのに相当に苦労しました。ロープをもってなかったので、斜面にお尻をつけて、次の木まですべりながら下りました。ここの斜面は危険ですので、もし行かれる方がおいででしたら十分気をつけてください、なんとか支尾根まで下りるとすぐに堀切があります。三重堀切の中で一番の規模です。その後、二条目、三条目と連続していますが、規模は小さいです。三重堀切の先には段郭が数段あり、現先端で唐突に崖にありますが、ここも県道16号線の改良工事で消滅としたようです。ここから麓の登城道まで下りるのもまた難儀でした。同様に尻を地面に付けて滑るように下りる箇所がありました。 麓の県道1号線沿い佐畑のバス停待合所に城跡の説明板がありました。 2008年訪城の記述 説明板は県道の橋の袂にありますが、城跡は説明板の右手側に見える山でなんか紛らわしい^^;(2023年時点では移転してました。) 今は舞鶴若狭自動車道に1/3ほど削られてしまっている山です。前回も今回も登城道を探したんですが、やはり見当たらずで、しょうがなく直登しました。主郭から見ると西側の車が入れるT字のところから、左手に山への道があります。わだちがあり、軽四のトラックなら入れるかも。 道はすぐにまっすぐの道と右側への道がありますが、どちらもすぐに行き止まりになります。直進の道を選び行き止まりのところの広場風のところから、そのまま斜面を登りました。広場の左手の斜面は植林用に木々が伐採してあり、ここの斜面を登り、尾根まで行って右手に進んでも行けます。私は最短コースで正面の斜面を沢沿いに登りました。けっこう急な斜面で、比高120m程度ですが、思ったより苦労しました。帰りも下りるのに苦労しました。久々にロープが必要になったです。 |
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歴史 | ||
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嘉吉元年(1441年)に武藤氏がこの地を与えられた後に築城されたものです。天文年間、武藤友益は若狭武田氏の四家老の一人とされ、佐分利郷を領したことで佐分利殿と呼ばれたようです。天文七年(1538年)には加斗の稲葉館の伊崎式部丞友賢を打ち滅ぼし、天文十九年(1550年)よりは本郷氏と争ったとされます。元亀元年(1570年)の織田信長侵攻ではいったん織田方に降伏しますが、その後に離反し、天正四年(1576年)に高浜城の逸見昌経に攻められ落城したようです。城は天正十二年(1584年)にその時期に若狭を領した丹羽長秀が破城したようです。 |
南支尾根堀切・南西支尾根堀切 |
東支尾根 |
2008年訪城 |
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