若狭/ 大倉見城



ファイルNo1952


            主郭   

@ おぐらみじょう 
  別名 井崎城 

A住所:三方上中郡若狭町佐古〜東黒田
    旧:三方郡三方町

B目標地点:佐古公民館・常徳寺
C形式:山城  D比高:240m 
E現況:山林

F遺構等:郭・竪堀・土塁・説明板
G時代/人物:戦国期/熊谷氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  佐古公民館から50分
J撮影・訪問時期:2008年09月
         (2010年10月)

  

道案内 ←城跡  ←佐古からの登り口  ←井崎からの登り口

北陸高速道敦賀インタを下り、料金所を超えて左側に下り8号線バイパスに入ります。2Km先の岡山1の信号で直進し国道27号線に進みます。5Km先の旗護山トンネルを越えたところで立体交差になっているところで道が交差しているので注意してください。国道27号線を進みます。海沿い(坂尻海水浴場)を6Km進み、トンネルを越えると佐柿です。(国道が高架になってます) 佐柿から13km先、あるいは、若狭舞鶴自動車道若狭三方インターから約3.5km先がJR三方駅、駅前から4km先が十村駅口の信号で右折します。700m先が十村駅で、駅前で右折し道なりにJR小浜線を越えます。踏切越えてすぐの信号を右折します。若狭梅街道です。左手に城山を見ながら2.2km先で左折し、小さな橋を渡り、すぐに右折し、300m先を左折し、700m先が佐古集落です。左折してしばらく進むと佐古公民館で、さらに行くと常徳寺です。集落背後まで行ったところに城山への登城道があります。佐古集落内は道が狭いので注意です。佐古集落の外側に登城口側に行ける迂回道路もあります。佐古集落側からは距離は短いですが急な感じがします。井崎側からの登り道は最初は長い尾根道を歩いてから城跡に向かいます。距離はありますが、体力的には楽かもしれません。
 
訪城備忘録

最初は東黒田集落側から登ろうと思ったのですが、道が分からず佐古集落側から登りました。井崎集落側からは十村駅の北側の麓から登れます。(城跡への案に標識有) 

佐古集落の背後の谷の道路に50mほど入ると左に城山への登城道があります。しばらく登ると簡易トイレがあり、ここから右手へ沢を越えて登って行きます。道は相当に崩れていますが、元々、木の階段があったため、杭が順番に並んでします。途中、草が多いところもありますが、杭を目印に登ります。つづら道を比高160mmほど登ると炭焼きの跡のような大穴があります。さらに比高80mくらいつづら道を登れば城跡です。

城域に入ると左手斜面が段郭状になっています。三の郭に登る折れの虎口に石が数個ありますが、石積みの痕跡でしょうか? 三の郭下の帯郭は石が散乱しており、若干でも石積みの構築があったんではと思います。北側の三の郭から南へ二の郭、主郭とあり、やや西側下に西の郭及び段郭があります。三の郭の北側下、西側下と主郭の東側下に数段の段郭があります。明瞭な空堀、堀切はありません。三の郭下と西の郭下に竪堀と考えられる窪みが斜面にあります。土塁は西の郭から主郭に上がるところの虎口形状に認められますが、遺構ではもしかしたら無いのかもしれません。頂上を主郭とした連郭式の中世の山城という感じの城でした。

主郭からの眺望
歴史

若狭守護となった武田信栄の家臣の熊谷氏の居城です。熊谷大膳直之が城主の時、永禄十一年(1568年)に越前朝倉氏に攻められましたが、落城はしませんでした。直之は、元亀元年(1570年)の織田信長の越前侵攻の頃より織田家に従うようになりました。その後、豊臣秀吉に従い、秀次の家臣となりますが、文禄四年(1595年)の秀次切腹事件に連座し、嵯峨野二尊院で自害したとされます。

二の郭      三の郭
主郭切岸     二の郭切岸
三の郭         西の郭
 三の郭下竪堀       三の郭下帯郭
西の郭          西の郭下竪堀
現地案内板より 
井崎側の麓より城跡遠景
城跡遠景(国道27号線沿いより)
     井崎側の麓よりの登り口の案内板 (配水場から尾根道を進んで城跡に至ります。)      
佐古からの道案内
集落背後の道(登城口まで50m)           登城口     
簡易トイレを右手方向へ      右手の坂道   
  登り道            中腹の炭焼き?跡

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