道案内 ←登り口 |
北陸自動車道福井北インタを下り、国道416号線を進みます。22Km先、県道261号線を進みます。1.6Km先の長山町の信号で左折し国道157号線に入ります。700m先で斜め左に入ります。400m先の路地に左折し200m先の左手に説明板(寺尾ふれあい会館手前)があり、ここより登りります。 (村岡小学校の裏手村岡神社側からも登れるようですが、比高は裏手の寺尾側からの方が楽だと思います。)
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訪城備忘録 |
城跡は御立山の山頂部にあります。登り口に鳥瞰図付きの説明板が有ります。ここから道沿いに地蔵が並ぶ木の階段の山道を登ります。中腹まで階段の山道が続き尾根に出ます。しばらく行くと前面に山頂部の高い斜面があり、道はここを左折し、しばらくすると主要部下に到達します。
右手斜面に畝状竪堀が見られます。長い竪堀が一条明瞭な形で見られました 一番南の堅堀沿いに主要部へと登って行き、平坦地に入ったらすぐに90度折れる感じです。そのまま左側二の郭の土塁と空堀沿いを進み食い違いの虎口を越えると三の郭です。正面に一段高い二の郭の土塁が横に広がり北側土塁は隅で開放され、その外側にL字の空堀があります。二の郭に入るには南西隅の虎口を通ります。つまり主郭へ行く導線は三の郭手前虎口まで北に進み食い違い虎口で90度西に曲がり、三の郭内を通過しまた90度曲がり虎口を通って二の郭に入るという具合です。二の郭は方形の主郭を取り囲むようにあります。(北側は除く)
主郭は二の郭より一段高く、二の郭に沿って深い空堀が巡ります。空堀は折れも入り、主郭から横矢が効いてます。二の郭から主郭への土橋が綺麗です。主郭は方形に近く西側に櫓台と思われる高まりがあります。夏場は主要部も草木が伸びていますが、主郭を取り巻く空堀、二の郭・三の郭の虎口・土塁がはっきり判ります。西側斜面の畝状竪堀は冬場でも存在がわかる程度、草木が邪魔します。
西側尾根上は連郭上に郭が並び郭間を堀切で隔てています。この堀切も夏場でははっきりしません。この城は、連郭式の一向宗の城に、柴田氏が主要部を悌郭式に改修したという感じで、主郭下の空堀は折れも入り、小型で、土の城ではありますが、戦国後期の技法を見ることができます。
2018年04月再訪 4月初めに再訪したんですが、前日夜に季節外れの積雪、満開の桜との不思議なコラボになってました。前回は夏場であったため畝状竪堀が見にくかったりしましたが、今回は草木は少ないのですが、積雪が邪魔でした(笑)
2022年06月に再訪しました。 さすがに夏場で草木が伸びて遺構は見にくいですが、夏場の緑が映えています。
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登城口
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信長の朝倉攻めから一年後の天正二年(1574年)に平泉寺と対立していた一向宗は、村岡山に城を築いたとされます。和田本覚寺などに率いられた一向宗は、義景を裏切り、自刃に追い込んだ朝倉(土橋)景鏡が逃げ込んだ平泉寺を攻撃し、平泉寺は全山が焼失しました。(この勝利で村岡山は「かちやま」とされ、勝山の地名となったと伝わります。)。天正三年(1575年)に織田信長は越前の一向一揆を平定し、越前を所領とされた柴田勝家は、一族の柴田義宣に勝山の支配をまかせ、義宣は村岡山城を拠点としました。義宣は一向一揆の残党に破れ討死し、かわって、勝家養子の柴田勝安(佐久間盛政の弟)が一揆を平定しました。勝安は天正八年(1580年)に袋田村に新しく勝山城(市民会館周辺)を築城し、村岡山城を廃城としました。
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