越前 | 杣山城 |
ファイルNo1196 |
@ そまやまじょう |
道案内 ←中腹駐車場 | |||
北陸自動車道今庄インタを下り、国道365号線を武生(現:越前市)方面に進みます。2.5Km先の信号で右折し県道137号線に入ります。右折してすぐ日野川を越え、500m先で北陸道のガードを越えます。<南条SAのETC専用インタで下りて北陸道沿いに来るとここに出ます。> そこから700m先で直進は県道202号線になりますが、この合流点の100m手前で右折し杣山へ登る林道を進みます。中腹の駐車場より杣山山頂への登山道を登ります。 なお、合流点より県道202号線をさらに800m進むと右側に杣山総合案内板及び居館跡に至ります。ここからも登れますが、麓からの登山です。 居館跡の近くに花はす公園があり、ここに温泉があり、地下1000mから掘り当てた温泉との事で宿泊も日帰りもあります。 |
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訪城備忘録 | |||
山腹の駐車場からでも尾根筋をアップダウンしながら比高200mほど登ることになります。主郭は技巧的とは言えないですが、中世の古い山城という感じです。西御殿から主郭までの間に細尾根上の堀切と岩石が露出している箇所が印象的でした。袿掛岩は瓜生保が戦死した際に夫人や女房たちがこの岩に袿(うちき)を掛けて飛び降り自害したとされるものです。また、西御殿は居住性のある空間で西御殿下には水の手である殿池があり今も枯れてはいませんでした。また、城の東尾根と西尾根とが鳥が羽で包み込むような形(馬蹄形)になる間の麓の谷間には居館跡がありますが広大な平場が広がっていました。この日、私は軽装で登りましたが、周りには麓よりトレッキング姿の方々、軽装は場違いでした・・・^^; 2021年10月再訪: 久しぶりに登るつもりで向かったのですが、当日の前の訪城に手間取り、時間が無くなって夕方になったので麓のみの散策です。二ノ城戸の空堀、土塁って前回は気が付かなかったです。^^; 麓の居館跡は説明板があるのですが、土塁・堀がイマイチわかりにくい感じです。居館跡は今後順次整備されて行くようです。17時ころに着いたんですが、ちょうど2組、7名ほどの方々が下りてこられ、達成感の歓喜の雄たけびを上げておいででした。(笑) 羨ましい。^^ 2022年05月、やっと城域全域を走破しました。西御殿の西下斜面の二重堀切は藪化はしていますが、大きな二重堀切でした。さらに、西御殿の上の土壇の南西下の支尾根に岩盤堀切・土橋がありました。幅はそう無いですが落ちている竪堀は絶壁状態で迫力があります。西御殿から土壇周辺まではひとつの城のような感じすらします。 今回は行きませんでしたが、岩盤堀切をさらに南へ進んだところに西尾根遺構1、その西側の離れたところに西尾根遺構2があるようです。 東御殿エリアは切岸が高い段郭が続きます。東御殿という名称ですが、西御殿より東側という対称で、主郭の北側支尾根にあります。段郭群中間に坂虎口のようにスロープ状になった箇所があります。滋賀の上平寺城のような感じですが遺構でしょうか? 先端の東御殿は広さとしては西御殿以上に広いです。ただ、技巧的とはいいにくいかな。 しかし、発掘調査で礎石群が出ています。西御殿より東御殿の方が新しい時代なのかもしれません。 主郭から東の尾根に向かいます。岩場を乗り越えるように進むと「犬戻り駒返し」に至ります。絶壁の岩場に上下ふたつの梯子が架かっていてこれを昇り降りします。特に上の梯子が怖かった。降り立つところの平場が少なく、すぐに絶壁の斜面ですのでマジ怖いです。これを越えて東尾根に行きますの三か所に堀切がありますが、堀切としては小さいものです。 今回、主郭南側下支尾根の堀切、東御殿の水の手跡は道が分からず断念しました。また、西尾根遺構と呼ばれる箇所も行けてません。 2000年に行った時は西御殿と本丸までのそれも尾根上だけでしたんで古い形式の城跡くらいしか思わなかったんですが、斜面の堀切、高い切岸、広大な城域、なかなかの城跡でした。 |
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築城時期は平安初期に源頼親城郭を築いたとの伝承もあるようですが、鎌倉末期に瓜生衛が越後の瓜生から来住し築城したものとされます。子の瓜生保は南朝方でした。延元二年(1337年/建武四年)、金ケ崎城の新田義貞を救援に向かった瓜生保が北朝方に敗れ戦死、翌年には新田義貞、脇屋義助は杣山城に拠って府中城の足利高経と戦いました。(延元三年(1338年)、越前藤島において新田義貞は戦死しました。) 杣山城は歴応元年(1341年)に落城したとされます。その後、杣山城には斯波高経が居城とし、その後には家臣の増沢甲斐守祐徳が居城にしたとされます。さらに、守護代甲斐氏が在城しました。文明六年(1474年)に甲斐敏光は朝倉孝景と戦いますが破れ、城は朝倉氏の家臣の河合安芸守宗清の居城となりました。天正元年(1573年)に朝倉氏滅亡とともに廃城になりました。その後、一向一揆の拠点となったともされます。 |
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麓遺構 |
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