近江 / | 黄和田城 |
ファイルNo2001 |
京極氏隠れ城
@ きはだじょう |
道案内 | |||
名神高速道八日市インタより、国道421号線で永源寺方面へ進み、御園の信号で国道307号線を横切り、さらに国道421号線を6Km進み、山上小学校手前の信号を越え、3km先、相谷町の入り口のY字で、さらに1.5km先が永源寺ダムです。ダムから8km先が政所で、愛知川の橋の手前で左折します。800m先で右折し、道なりに1kmほど進みます。奥永源寺清流の里という道の駅を過ぎてすぐ黄和田の集落に入り、いったん左折し、黄和田の集落内を進みます。200mほど先に住居案内板があり、その先で左折します。左折すると「この先人家なし」の看板があります。300mほど砂利道を登ると砂防ダムが見えてきます。砂防ダムの手前に小さなコンクリートの橋があります。これを渡った先が城跡です。(集落内から背後に進んでも行けます) |
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訪城備忘録 | |||
砂防ダムの手前の橋を渡ると小さな稲荷の祠があります。この辺から城域には石垣が累々とありますが、たぶん棚田の跡か集落の跡なんでしょ。今は木々が生い茂っています。高台の一角に「京極黄蘗城址」碑と地元の方の手書きの説明板が立っています。この辺と稲荷神社付近の石垣は、若干、他の石垣と違っても見え、せめてこれくらいは城の遺構だといいんですがね・・・。城跡には集落側からも入れ、入り口にも説明板が立っていて、脇には五輪塔が二基ありました。城主の墓かな? 黄和田の手前の集落が政所、説明板には京極氏が居た館があったようです。この政所(国道沿い)に藁引き屋根の古民家の料理店兼宿があります。ワインを飲ませ、宿は一晩に一組しか泊まらせないようです。なかなかの隠れ宿だな。また、政所から県道34号線をさらに奥に入った所に「木地師の里」があります。国道421号線の政所から県道34号線で約6km先、蛭谷には木地師資料館があり、蛭谷の先で右折し約4.5km先、君ケ畑地区には惟喬親王ゆかりの地になります。木地師は木を使ってお椀やコマのようなものを作る職人でここが発祥の地とされています。伝説ですが惟喬親王(これたかしんのう)<清和天皇の兄>がこの地に隠棲(諸説あります)し、土地の人に木のろくろのようなもので木を加工することを教え(巻物を広げるときに芯がくるくる回るのかえあ発想したと伝わります)、それが発展、最盛期には木地師は千軒あったといわれます。その後、木地師は全国に散っていったとの事です。それから、永源寺の近くに日帰り温泉の永源寺温泉<八風の湯>というのも出来てます。 |
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京極政経(政高)と子の材宗が居住したと伝承されます。京極政経(政高)は持清の子で、応仁の乱を挟んだ頃の京極氏の当主であった人です。長享二年(1488年)、秦川(現在の愛荘町)の松尾での京極高清との戦いに敗れた京極大膳太夫政高が政所から黄和田城に逃れたといわれ<伊勢に逃亡したが通説?>、以来、京極氏の城として、江勢国境八風峠・石槫峠の要衝を抑えたものと思われます。京極政高の子の材宗は、黄和田城を根拠地として在城しており、金剛輪寺から年始の贈り物を材宗とその家老の市村某に届けたと伝えられています。永正二年(1505年)には材宗と高清は和睦し、正式に京極氏の当主は高清となったようです。後に、守護佐々木六角氏の被官の小倉氏(西家)はこの小椋谷を領し、家臣の川副孫三郎吉永という人を置きました。<現地案内板より加筆> |
木地師の里(きじしのさと) 東近江市君ケ畑町(金龍寺)・蛭谷(帰雲庵・木地師資料館) |
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