道案内 ←登り口 ←城跡 |
北陸自動車道木之本インタを下り、料金所の先の信号で左折し国道8号線に入ります。700m先の大音の信号で左折して県道44号線に入ります。川沿いを3km先が県道261号線との交差点です。この先の左側が磯野の集落で、磯野山城の居館の磯野館(宮沢城)があったところです。1km先の橋に右折します。川の先にはヤ○○ーの工場があります。橋から500m先でY字を右手に入り、500m先が松尾集落です。集落入り口の十字路で右の農道を行くと松尾古墳の入り口標識があります。城跡はここから登ります。
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訪城備忘録 |
城跡は集落の背後の山に見えるピークのところです。集落・山を正面にして右手方向に墓地が見えます。さらに右手上には松尾古墳があります。まずはここまで行きます。松尾古墳手前には動物よけの柵がありますが、立ち入り禁止ではないようです。松尾古墳の左手に階段状の山道が付いていて、これを登って行きます。途中、草木に埋もれたり、崩れたりしていますが尾根までなんとか登れます。尾根まで登ると、左手方向に登って行きます。最初のピークは丸い削平地で石列が認められ、古墳跡のようです。城としては見張り台かな? この先急な坂をさらに登って行きます。二つ目のピークはいったん細長い平坦地になります。この手前にわりと明瞭な堀切があり、土橋が残ります。細長い平坦地の後ろにも堀切があります。これを越えて、最後の急坂を登ると主郭です。主郭と言っても最高点というだけで、これといった遺構があるわけではないです。主郭背後は急坂で落ちていて、斜面途中に堀切がありました。この先はまた尾根が続き、賊ケ岳から山本山まで琵琶湖沿いに南北に連なる山並みに繋がっているようです。
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主郭
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築城時期は定かではないようで、磯野員友あるいは員精が築城したとされます。磯野氏は京極氏に仕え、京極氏が衰退し浅井氏が台頭し、永正十四年(1517年)に浅井亮政が上坂氏などを駆逐した際、浅見対馬守が山本山に立て籠り、磯野員詮(貞詮)は浅見氏に味方して磯野山城に立て籠ったとされます。浅井亮政は磯野山城を攻撃しましたが、員詮と子の為員の奮戦で攻略できませんでした。天文元年(1532年)為員は討死し、磯野氏は員吉が継ぎ、佐和山城を本拠として浅井氏に従いました。磯野山城は大橋安芸守秀元が入ったようです。なお、磯野員昌(かずまさ)は員吉の孫(父は員吉の養子の員宗)にあたり、浅井氏の重臣として、元亀元年(1570年)の姉川の合戦でも活躍しますが、元亀二年(1571年)に織田氏に従い、高島郡を与えられました。しかし、天正六年(1578年)に織田信長に追放?されたか自ら出奔したとさらます。 その後の、員昌の記録は残っていないようですが、子息の行信は藤堂家に仕えたようです。
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