道案内 |
栗東インタから国道8号線で来ると、野洲市小篠原の信号で左折し県道155号線に入ります。300m先でJR東海道線の陸橋を越え、久野部の信号を直進し北野小学校横を進みます。竹生(たけじょう)の二又信号も右手直進します。竹生の信号から2.4Km先の信号で右折し県道32号線に入ります。1.2Km先の信号は変則交差点の豊積の里の信号でここを左折します。 600m先の兵主神社南の信号を直進し、50m先で右折し、中主中学沿いに500m進むと左手が兵主神社です。
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訪城備忘録 |
庭園は豪族の館にあったものということで、ここに豪族が居住していたらしいのですが、播磨守資頼ってどんな人物で、姓はなんていうのかよくわからん^^; 庭園のよさは私にはよくわからんが正直なところだす。^^;; なお、兵主神社はよく時代劇のロケに使われるようで、2002年の大河ドラマでは桶狭間の戦い前の熱田神宮としてロケされたようですし、水戸黄門さんのロケは数回しているようです。
庭園は有料なので入らなかったんですが、秋の紅葉ライトアップの機会に夜に入ってみました。水路が巡る回遊庭園のようですが、説明板には発掘調査で土塁築地、堀跡が確認されたとのことです。
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兵主神社社殿
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社伝によると、3世紀後半頃、滋賀郡穴太(大津市)遷都にともない穴太に社地が設けられ、さらに欽明天皇の時代に琵琶湖を渡って現在地に遷され、社殿が造営されたと伝えられています。拝殿の左奥にある庭園は、神社がこの地に移転してくる以前からあったと言われ、もともと神社の庭としてではなく、鎌倉時代のこの地の豪族である播磨守資頼邸の庭園だったといわれています。庭園は、大規模な地泉廻遊式庭園で、池に中の島を浮かべて出島を作り、護岸(ごがん)の石組みや築山の三尊石組みなど、造園の妙が感じられる美しさがあり、深い趣があります。また、この池をめぐる小道は、一面苔がむした間を縫って作られており、京都の西芳寺(苔寺)を思わせるようなしっとりとした雰囲気があります。平安時代後期の作といわれています。 <現地案内板より>
*欽明天皇は、近江の出身と言われる継体天皇の子で、西暦570年頃の天皇であるため、社伝と庭園が造営された時期がなんか合わないんだけど、とりあえずは平安末期から鎌倉期にかけて播磨守資頼の館あるいは館城があったという事なんでしょうかね。
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