近江/ | 田屋城 |
ファイルNo1404 |
織豊期の技法の縄張りを持つ土塁の城
@ たやじょう |
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【道案内】 ←登り口 ←城跡 北陸自動車道木之本インタを下り、国道8号線を敦賀方面に進みます。8Km先の塩津の信号で左折し、国道303号線に入ります。10Km先(奥琵琶湖トンネルを越えた先)の野口の信号で左折し国道161号線に入ります。8Km先の沢ランプ(高架)を下り、すぐ下の沢の信号で右折し県道287号線に入り、高島市マキノ支所方面に進みます。(琵琶湖大橋からは国道161号線を進み53Km先が沢の信号です。) 橋を渡ると県道は左折です。右カーブして250m(橋から600m)で左折、<あるいは、橋を直進して、700m先右手の長法寺のところで左手路地に左折し、300m先で県道を横切ります。> 県道から500m先で森西集落内でS字カーブを越えると極楽寺で、その先に周辺案内板があります。この先から登ります。森西集落手前から各所に田屋城の案内標識が出ますので迷うことはないと思います。 【訪城備忘録】 まずは、案内板のところからまっすぐに山に向かいます。案内板に縄張り図が追加されてました。山すそ周囲には動物除けの2mのフェンスが巡らされていて、城跡への山道もフェンスゲートがありますが、鎖を外して中に入れます。出入りには必ずゲートを閉め、鎖も付けた上で山に入ります。入ってすぐに右手方向に登ります。標識がありますので、これに従い登りますと城跡の口の丸に到達します。麓の案内板には40分と書いてありましたが、ゆっくりでも30分で到達しました。 城跡は大きく五つの郭で構成され、それぞれの郭は40m四方ほどあり、また、それぞれの郭は2mほどの高さの分厚い土塁が巡ります。登り切った郭に「口の丸」の標識があります。この北側に土塁囲みの北の郭、南に鍵状に土塁の巡る南の郭がありますが、この南の郭は口の丸との間にある土塁は仕切り土塁で口の丸と南の郭はひとつの郭なのかもしれません。(以前なかった案内板の縄張り図を見ると) 口の丸の西側に一段下がったところに郭があります。 西側尾根上に少し登る感じで奥の丸があります。奥の丸の虎口は明瞭な内桝形で驚きました。現在見る遺構からは、郭は居住性を感じ、駐屯地のような感じもします。しかし、竪堀は逆に大きな幅のある竪堀で、防御性も感じます。口の丸に登ってくる東斜面に大きな竪堀があり、、奥の丸の北側斜面には明瞭な3条の竪堀、不明瞭なものも含めて畝状竪堀状になっていました。さらには、南郭の南斜面の西側と西斜面に4条ほど明瞭な形で残っていました。 口の丸中央の郭の東斜面にも竪堀が2条あります。口の丸と奥の丸の間の低い郭(中央の郭)の北側の土塁の先(この土塁は口の丸と奥の丸を繋ぐ通路にもなっています。)は広い堀切状で底幅は10mはありそうです。この箇所は遺構ではなく後世そういう地形になったのかもしれませんが、削平がしっかりしていて横堀風・帯郭風になっていて、馬場のように見えます。 本丸(主郭)は普通は奥の丸の位置でしょうが、この奥の丸の尾根側には堀切の先に明瞭な郭はありませんので、どう考えたらいいのでしょうか?です。尾根をさらに進むと小さな食い違い堀切、そのさらに奥には駒返しと呼ばれる自然地形に近い大きい竪堀があります。 マキノ町は昔は海津と呼ばれた重要な港です。街道と海津の港を監視・守りという点では西側尾根は搦め手ですが、北・東側の技巧さに比べ手薄のような感じがします。それにしても、この城は想像以上にしっかりした遺構の城でした。また、山深い山城を想像していましたが、案内板・登城道もしっかりしていて とてもいい城跡です。 【歴史】 観応三年(1352年)頃、饗庭命鶴丸が築城したと伝えられるそうです。その後、応永年間に清原蓮廉が入り、応永年間に田屋淡路守が入ったとされるようです。この城は田屋氏の詰城であり、居館は現在の長法寺及びその北西周辺にあった沢村城とされます。永禄年間、田屋山城守吉頼は浅井氏と与して織田氏と争い、浅井氏の滅亡前後に落城したようです。ただ、遺構からして、その後も海津港の守り等で織田氏系の手で改修され使用されたと想像します。<現地案内板より参考> |
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⇒⇒ 田屋城・2008年・2018年再訪時の写真 |
近くの城・関連の城:長法寺館