近江/ 音羽城



ファイルNo0792


           南東側の空堀 @

@ おとわじょう 
  別名 

A住所:蒲生郡日野町音羽
B目標地点:
C形式:山城  D比高:30m 
E現況:公園・山林

F遺構等:土塁・堀・説明板
G時代/人物: 室町期/蒲生氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  広場入口1分

J撮影・訪問時期:2000年10月・2005年5月
            2015年06月

  

道案内  

名神高速道八日市インタより国道421号線で永源寺方面へ進み、御園の信号で右折し国道307号線に入り、約9Km先の日野町の松尾北の信号で左折し国道477号線に入り、約6Km先で県道182号線に右折し、音羽集落を抜けて約1.2Km先左手が城址です。(または国道307号線の松尾北の先の松尾の信号で左折し日野町中心地を抜け中野城の前を通り音羽地区で県道182号線へ右折します。)
 
訪城備忘録
南西側の空堀 A

県道より城跡へ登る道の途中(広場手前)左手に武家屋敷跡、その奥に水の手、大手門跡、出曲輪(現:阿賀神社)があります。出曲輪の西側には深い空堀とその先にL字の土塁、さらに掘となっている箇所がありますが<写真H>、ここは遺構なのかは?です。出曲輪そばに大手門跡がありますが、出曲輪は馬出し的要素があったと思われます<写真IJ>。広場入口すぐ右手が主郭跡であり、往時は石垣が巡っていたらしいです。並んで二の丸があり、南側に広い南丸があったようです。現在はこの主要部三郭が広場となっています。ただ、南丸の南側に土塁と井戸が残っています。この主要部を取り囲む空堀は、幅7〜8m、深さ3m程度と明瞭です。しかしながら、この空堀を含め主要部の遺構は後年の何度かの改変を受けているとのことで、往時の姿そのままというわけでは無いようです。<後で資料を調べてみましたところ写真@は昭和初期に採土運搬のためのトロッコ道を通すために掘り下げられたもののようです。往時は主郭より段差を持ち、外側に土塁を持つ帯郭であったようです。ですから、現状より底がもう少し高い位置にあったと推測されます。> 南西側尾根には二重の堀切と搦め手門でしょうか?土塁があります<写真AE 土塁は伝櫓台との事でした>。この下に本丸からの抜け穴と言われる穴がありました。なお周囲に音羽城付属の陣跡や付け城の遺構も残っているようです。

土塁 B
歴史

蒲生貞秀によって応仁・文明年間(1467〜1486年)に築城されたと伝えられます(異説有り)。背後に宝殿ケ岳を控え、前面に急峻な崖地と日野川を配したこの城では、明応五年(1496年)と文亀三年(1503年)に激しい合戦が二度起こり、いずれも蒲生氏が勝ちますが、大永二年(1522年)に起こった蒲生氏同族間の抗争、=貞秀は秀行に家督を譲るも秀行が早世したため貞秀は家督を秀行の子秀紀に継承させましたが、秀行の弟高郷は不服で、貞秀死後に秀紀と高郷との間に相続争いが起き、六角定頼が高郷を助勢し、秀紀は籠城八ケ月後降伏し、和議により音羽城を廃城することとなりました。八ヶ月耐えられる堅固な城であり、水の手は充分確保できる城であったため六角氏は音羽城を廃城させたもので、破城のはしりのようなものでしょうか? <現地案内板参照加筆> 史料には本丸は石垣作りであったらしく、大永二年より後も使用されていた可能性があるようです。

【蒲生氏】
蒲生氏は藤原秀郷(田原藤太秀郷)の末裔とされ、子孫の惟賢が奥州から近江国蒲生郡に住み、蒲生氏を称したのが始まりといわれます。音羽城を居城にする以前は小谷城(こたにしろ)を居城にしていたと伝えられます。秀紀との内紛後、蒲生家本流は高郷の系統となりました。この頃の蒲生氏は六角氏の重臣として活躍しました。永禄十一年(1568年)に織田信長が六角義賢を攻めた際には蒲生賢秀(高郷の孫・定秀の子)は信長に転じました。天正四年(1576年)には 安土城築城により信長は賢秀に安土城の留守居役を命じています。天正十年(1582年)に信長が本能寺で横死した際、賢秀は安土城に居た信長の妻妾を日野城に匿いました。秀吉の時代となり、賢秀の子の氏郷は天正十二年(1584年)に伊勢松ヶ島城主(現:松阪市)十二万石に、さらに天正十八年(1590年)には、会津黒川城四十二万石に移封され、その後、黒川を若松と改め九十二万七千石の太守となりました。しかしながら、文禄四年(1595年)に氏郷は四十歳にて京都にて没してしまい、秀行が家督を継いだものの、宇都宮十二万石に減封されました。関ヶ原の功で会津六十万石に返り咲きましたが、秀行の死後に子の忠郷も没し、蒲生家は無嗣断絶となりました。 <中野城設置の説明板に加筆 日野観光協会>

主郭 C                      城址碑 D
(現在は二の丸・南丸を含めた部分がすべて ひとつの広場になっていまっているようです。)                         
南西側・伝櫓台 E          ぬけ穴 F
  
南丸井戸 G        城址からの遠景
出曲輪西の堀形状(遺構?) H
    大手門 I      出曲輪より大手門側土塁 J

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