近江/ 鳥居平城



ファイルNo0785

無名ながら大規模な遺構が残る城

  土塁 @ 

@ とりひらじょう 
  別名  −−−−−
A住所:蒲生郡日野町鳥居平
B目標地点:
C形式:丘城  D比高:30m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・説明板
G時代/人物: 室町〜戦国期
      /小倉氏・蒲生氏<寺倉氏・吉倉氏>
H満足度:
凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  八幡神社前より説明板のある郭まで8分


J撮影・訪問時期:2000年10月・2005年04月
             2015年06月・12月

  

道案内 

名神高速道八日市インタより国道421号線で永源寺方面へ進み、御園の信号で右折し国道307号線に入り、約5Km先の日野町の中在寺の信号で左折し県道525号線に入ります。2.5Km先の桜谷の中之郷の信号で右折し県道506号線に入ります。約1Km先の川を渡り、坂を登り切通し風のところを抜けてすぐ左折し鳥居平地区に入ります。集落の中心に右手八幡神社、左手集会所のところから城跡案内標識がありますのでそこを進みます。(または国道307号線を中在寺の信号よりさらに坂を登り大谷の信号で左折し、800m先の信号で左折し県道506号線に入り、1.5Km先を右折して鳥居平地区に入ります。)<城跡標識のところからだけでなく、砂防ダムそばに「城山ヘ」という標識がありここよりも登れます。>
 
訪城備忘録

鳥居平地区は東西に丘陵が伸びた谷の部分にあり、この東の丘陵に城跡はあります。案内標識に従って集落の東側に登ります。民家の庭先を通り左手丘陵上に登ったところの郭に説明板が設置があり、郭内は整備され土塁が明瞭にわかります<写真@>。この整備された郭を含め、南北に数百メートルにわたって城域が続くという大きな城です。民家の庭先から左手へ登ると説明板のある郭へ登れます。これを便宜上前部の郭とします。主郭を含む三つの大きな郭と谷部が再度東西の土塁と空堀で仕切られるところまでを中間郭群、その南側を後方郭とします。前部郭の右手の竹薮に入るとすぐに堀切があります<写真A>。ここより東の丘陵の真ん中に浅い谷状の箇所が南に続きます。「ダムヘ」と書かれた標識が何ヶ所か立っています。この谷間を進む細い道の両サイド丘陵上に左手に大きく2つの郭と堀切を見ることができます。各郭の大きさは40m四方以上あり、どの郭にも土塁が巡り、各堀切も深く圧巻です。この西側、谷を挟んだ所にある大きな郭が主郭のようです。それにしても、ほとんど無名な城ですが、城の規模は大きく、良質の遺構が残っていると言えます。ここのお城は縄張図を見ていると、なんだか軍艦(それも戦艦)みたいに見えます。そうすると整備してある郭は主砲の位置、城域の南北のちょうど中間で分厚い土塁に囲まれた郭<写真=堀切C・土塁B>が艦橋の位置ですから ここが主郭でしょう。

2015年6月に再訪しました。雨の日の訪城で、山ヒル4匹に被弾しました^^; 堀切などの標識が立っており、若干整備された部分もありました。
2015年12月に再訪しました。今年2回目ですので、変化はないですが、南側の郭(後方郭)を廻って見ましたが、こちらの2郭も土塁と堀切の残存度はいいですが、最南端は広いですが削平も甘く、兵站地なんでしょうかね。
堀切 A
歴史

築城時期・築城者などについて不明です。ただ、蒲生氏の家臣である寺倉氏が城主という言い伝えがあるようです(小倉氏の四ケ谷城に備えた城として)が、現在の遺構は小倉氏によるものか蒲生氏によって構築されたものか定かではないようです。

現地案内板より
堀切 B      土塁 A
堀切 C      土塁 B
  
最初の堀切         整備された郭と堀切を挟んだ次の郭 
次の郭の郭内土塁                     虎口?
2番目の堀切
2番目の堀切
次の郭の櫓台風の土塁                  郭を仕切る仕切り土塁
主郭側堀切
主郭側堀切                       主郭を下から
主郭内と土塁
主郭内と土塁
主郭土塁
主郭と虎口と土塁
城域中間を出る虎口
城域中間を出る虎口
中間空堀                      後方郭の堀切
後方郭と堀切
南郭群の1本目の堀切
南郭群の2本目の堀切
南郭群の土塁        最南端の郭
谷部

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