近江/ 佐和山城



ファイルNo0710

三成に過ぎたる城も今は埋もれた古城

         本丸(主郭)と城址碑   

@ さわやまじょう 
  別名 

A住所:彦根市佐和山町
B目標地点:龍潭寺
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林・公園・畑地

F遺構等:郭・土塁・石垣・堀切・井戸・石碑・説明板
G時代/人物: 戦国期/佐保氏・磯野氏〜石田氏
H満足度:
凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  龍潭寺から20分

J撮影・訪問時期:2003年12月・2007年10月
2010年04月・ 2015年06月・2017年03月
2017年04月 2019年09月・2020年02月
2022年04月 2022年08月 他

  

道案内 ←大手門の位置  龍潭寺登り口

名神高速彦根インタを下り、原町の信号を右折して国道306号線に入り国道8号線に向かいます。外町の信号で右折し国道8号線に入ります。約800m先、古沢町の信号斜め左に入ります。JRの陸橋を越え彦根警察署の先(船町の信号の手前の信号)の船橋東信号(古沢町の信号から約1.4km先)を右折し、約800m先で右折し、約100m先、JR踏み切りを越え、すぐ左折し、清涼寺を過ぎ龍潭寺に至ります。龍潭寺の本堂前より塩硝やぐらを経て本丸に至ります。
(または、国道8号線を古沢町の信号を過ぎて佐和山トンネル手前左に佐和山城の案内板があります。ここから法華丸ー女郎谷を通過して本丸に登れますが、今は通行止めになってます。)
 
訪城備忘録

有名な城でも、徹底的に破壊されたせいか遺構という点では乏しいものです。ただ、縄張りはきちんと残っていますから、石垣が無くなっただけとも言えるかな? 本丸(主郭)は公園整備されていますが、石垣の痕跡は本丸下東側に大石2段が残り、2004年に南斜面に石垣が見つかっています。山腹の千貫井と呼ばれる井戸は今も水をたたえます。太鼓丸(郭)・千畳敷・法華丸(郭)については藪状態で明瞭ではありません。女郎谷は佐和山城落城時に侍女など女性が身を投げたという悲しい谷です。大手門跡は国道8号線佐和山トンネルを鳥居本町側に向かい、トンネルを越えて800m先(坂を下りきって小さな川を渡ってすぐ)を左折したすぐ左に大手門跡があります。ここは土塁もしっかり残っています。彦根キャッスルロードにある宗安寺にこの城の表門が移築、河原町の妙源寺に法華丸から移築されたと言う伝承のある門が移築されています。

2007年10月
本丸(主郭)南斜面の石垣を見に行きました。場所は千貫井の少し西側上くらいですが道は無いです。石垣手前で崩落していてU字に斜面がえぐられています。落ち葉が堆積して滑りやすく、つかまる木も無いのでやや危ないという感じです。石垣は崩落箇所手前に痕跡と向こう側に六列三段程度残っていました。<これを見学の方は自己責任で行ってくださいね> 太鼓丸(郭)の石垣痕跡はどうもわからんですが、木と木の間にそれらしい石が二段ありましたが、どうかなという感じでした。

2010年04月
今回は二の丸(郭)、三の丸(郭)を見に行きました。その前に西の丸(郭)の伐採がされており、今まで遺構が良く分からなかった焔硝櫓の碑がある西の丸下段の郭にはL字の土塁が明瞭に現れるとともに西の丸を区画する堀切も明瞭に見えました。二の丸(郭)から三の丸(郭)の部分も一部伐採されており、二の丸(郭)の薄くなった堀、堀切などが確認できました。しかし、二の丸(郭)の櫓台や北側下の堀切<美濃殿丸(郭)への尾根側>は藪状態で堀切を見落としました。二の丸(郭)と西の丸(郭)の間にある水の手、あるいは、馬冷池も行けなかったな。昨年、馬冷池の東側麓(奥入谷)の侍屋敷地区の発掘調査現地説明会があったようです。さらに、太鼓丸(郭)の南側下堀切も見てないな。まだまた、見るところはありそうです。

2015年06月
物生山城から尾根伝いに佐和山城まで歩いてみました。尾根途中に堀切がありました。磯野氏時代なのかな?

2019年09月
城下町の発掘調査現説に参加しました。

2020年02月
降雪の午前中に登城しました。 本丸南下の残痕石垣ですが、以前の斜面の道は崩落して通れませんが、千貫井の後ろから小道が付いてました。この日は雪のため登りませんでしたが石垣の下まで行けそうです。

2022年04月
三の丸から登って見ました。4月でありながらすごい藪状態です。本丸は桜が満開で綺麗でした。 千貫井の祠が今年の豪雪の影響ででしょうか? 祠の横の大木が倒れ祠を直撃して潰されてました。

大手門より
歴史

佐和山城は、建久年間(鎌倉時代)に近江守護職佐々木定綱の子で佐保六郎時綱によって築かれたとされます。室町前期は観音寺城の佐々木(六角)氏の持城でありましたが、戦国時代になると、小谷城主浅井氏が進出し磯野氏が城将となりました。磯野員昌は姉川の合戦(元亀元年(1570年))以降、佐和山城を守りますが<天正元年(1573年)小谷城落城浅井氏滅亡前の>、元亀二年(1571年)年に織田信長に降りました。本能寺の変後、秀吉は堀秀政・堀尾吉晴を城主とし、堀尾氏は城を大改修します。天正十八年(1590年)には石田三成が十九万石を領して城主(水口4万石より)となりました。慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦に敗れ、佐和山城も東軍に攻められ落城しました。関ヶ原の戦功により、井伊直政が十八万石にて佐和山城に入城しましたが、慶長十一年(1606年)に彦根城築城により廃城となりました。佐和山城は徹底的に破城され総石垣だった城の面影はないです。


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本丸南斜面石垣痕跡
本丸南斜面石垣痕跡
大石(石垣隅石) 
国道8号線沿いの登り口説明板より
   千貫井           女郎谷の碑     
妙源寺(彦根市)の移築門    龍潭寺(彦根市)山門
高源寺(多賀町)の移築門   宗安寺(彦根市)の移築門
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本丸の桜
千貫井裏手斜面から本丸(右手の繁みに南面残存石垣)
本丸
佐和山城本丸から彦根城遠望
佐和山城本丸から彦根城遠望
彦根城西の丸から佐和山城遠望
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