近江/ | 浅小井城 |
ファイルNo0676 |
@ あさこいじょう |
道案内 | |||
名神高速竜王インタを下り、国道477号線を北に向かいます。西横関の信号で右折し国道8号線に入ります。600m先日野川を越えた東川の信号で左折し県道326号線に入ります。4Km先の小船木町の信号で右折し県道2号線(朝鮮人街道)に入ります。1.6Km先中村町の信号を越え、そこより約2Km先の左手旧八幡養護学校を過ぎるとすぐ橋を渡ります。橋を渡りすぐ左折して川沿いを300mほど進んで右折して「浅小井ふれあいセンター前でやや右手に進みます。50m先左手奥の畑地が主郭です。集落内に江戸期の水路跡など有り、城があったころの説明板が各所にあります。(あるいは、橋を渡り500m先の浅小井の信号で左折し集落を抜けます。) |
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訪城備忘録 | |||
浅小井町内の方々により、町内各所(北出馬場・加賀殿馬場・邸跡など)に説明板が立てられています。遺構は残りませんが、町内を散策するだけでも楽しめます。 |
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大古、沙々木神社豊浦冠者行実の息浅小井次郎盛実の後裔深尾氏第十代加賀守元泰が足利将軍義政の幕下にあって当地を領有後、十一代元範は佐々木(六角)高頼の命により文亀元年(1501年)に築城しました。十二代元秀、十三代元忠と続き、永禄年間にこの城を伊庭氏が領有を画策したが、六角承禎義賢はそれを避け、甲賀武士の山中大和守俊好に与えますが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました。その後の安土城築城後、城はこの地の豪族の伊佐志摩守に預けられ、信長の鷹狩の際は伊佐氏別邸に立ち寄り休息したと伝えられます。天正十二年(1584年)秀吉は池田秀氏<池田氏は近江源氏佐々木氏の流れで甲賀池田を発祥と六角氏に属していたが観音寺騒動の際六角氏を離れ、信長の近江侵攻時は織田氏に属しました>にこの城を与えますが、池田氏が文禄四年(1595年)に伊予大洲に転封し当城は破却されました。 <現地案内板より 浅小井まちづくり委員会 > |
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