近江 / 田中城



ファイルNo0666

寺院跡を再利用した城郭で、史跡公園整備され遺構の見学がしやすくなっています
明智光秀が史料(熊本吉田家文書)に初めて出てきた城?と言われます。

                  主郭(天主跡)・後方土塁 

@ たなかじょう 
  別名  上寺城

A住所:高島市安曇川町田中
     旧:高島郡安曇川町

B目標地点:
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀・碑・説明板
G時代/人物: 戦国期/田中氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓の現地案内板より15分


J撮影・訪問時期:2003年08月・2008年04月
             2016年11月

  

道案内  ←登り口

琵琶湖の西岸、国道161号線を琵琶湖大橋のところから北上すること約30Km、(新)国道161号線より青柳の信号で左折し安曇川駅方面に向います。安曇川駅のそばを越えJRを越えて県道297号線に入ります。信号で言うと西古木(県道556号=旧161号線との交差)、南木(県道23号線との交差)、田中(県道298号線との交差)と信号を進みます。田中の信号で県道297号線は左方向に進み、山すそを1.5Kmほど進んだところが上寺地区です。右手道沿いに縄張図つきの説明板が立てられており、そこより北側の山に向かいますが、20m先のT字で左折し、さらに40m先の集落内で右折し坂道を登ります。50m先の民家の右手を入っていくと城址碑があります。ここより案内標識に従い入ります。
 
訪城備忘録

居館部より主郭を含む主要部までほぼ完存し、また、2002年に公園化整備されたもので、非常に見学しやすい城跡です。案内板に従い、まずは居館部へ行きます。区画の土塁が明瞭に残っています。ここより少し急な登りを進むと数多くの郭がある尾根に到達します。この一帯は元々の寺の坊跡で、これを城郭に再利用されたもののようです。土塁を巡らした郭が不規則に連結しているという感じで、整然とした縄張りと言う感じがしません。ただ、土塁、堀、堀切という城郭パーツに関しては整備されたこともあるのでしょうが、大変判りやすい状態になっています。武者隠し・土橋の表記の箇所で?という箇所もありますけどね。この一角を越えると観音堂、さらに松蓋寺跡に至ります。松蓋寺跡の背後から尾根が急坂になり主郭部に至ります。主郭は山の斜面を掘り削り作られたようで、主郭西側が削り残しの高い土塁がありますが、あとの三方は崖になっています。土塁の外側(西側)には斜面に沿って掘があり、その先の尾根には堀切が設けられています。この主郭の西側から南側へL字に主郭を防御の横堀がありますが、西側は斜面上にあるため竪堀みたいに見えます。

歴史

田中郷の領主・田中氏の居城であった田中城は、泰山寺野台地から舌状にのびる支丘の先端に築かれた中世末期の山城で、現在も上寺区西側の山間部にその遺構を残しています。天守台があったと推定される曲輪の標高は220m、平地との比高差はわずか60mで同時期の山城と比べて標高の低い場所に位置していますが、城域の要所に堀切,土塁,武者隠しなどの外敵を防ぐための遺構が見られ、相当の規模を誇る城郭であったことが窺えます。田中城が築かれる以前、この地には古代の山岳寺院・松蓋寺が建てられていました。そして、廃寺跡となった所に田中氏が城郭を構えたものと考えられます。『信長公記』によると、元亀元年(1570年)四月、織田信長の軍勢が越前の朝倉義景攻略の途次、この田中城に逗留したことが伝えられており その後、浅井長政の勢力下におかれていた田中城は元亀四年(1573年)に信長の手によって攻略され、明智光秀の支配を受けて終焉を迎えますが、田中氏の流れをくむ田中吉政は、秀吉,家康に相次いで使仕え、三河国岡崎城主,筑後国柳川城主として城下町の建設・整備に手腕を発揮したことで現在も称えられています。<現地案内板より 安曇川町観光開発委員会>

2019年、熊本細川藩藩士のご子孫の吉田家から出てきた古文書で、明智光秀がこの城に籠城したという文書が見つかったとの事で話題になりました。光秀は医術の知識があってこの城ではそれを活用したとの事です。幕府衆として朝倉氏の進攻にそなえるためにこの城に籠城したらしいです。 さて?

田中城・2008年再訪時の写真⇒⇒☆☆
現地説明板より
土塁
横掘
郭の虎口土塁
観音堂下堀切状
観音堂下堀切状            観音堂下郭
主郭(天主台)西側空堀土塁
主郭(天主台)と西側土塁
北側尾根の堀切と土橋
北側尾根の堀切と土橋
 
 堀切              主郭背後の堀
居館跡
  

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