近江の城40 ▽
市城 f4226 |
栗田城 f4227 |
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A愛知郡愛荘町栗田 旧:愛知郡愛知川町 近江八幡より国道8号線で来ると、御幸橋で愛知川を渡ると、御幸橋北の信号で右折し、県道213号線に入ります。約600m先で道は二股に分かれ、右は県道529号線、左は県道213号線です。県道213号線を進みます。約2.5Km先が平居の信号で左折し県道221号線に入ります。約1.2km先が栗田の信号で直進します。約300m先、右手にO商店と言うわりと大きな工場があり、この手前を右折します。工場の裏手左側に説明碑があり、正面が竹藪の雑木林ですが、ここが城域の一部です。雑木林を三方廻ってみましたが、竹藪がきつすぎて入る気にはならずでした。 |
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C平城 F遺構等:郭・土塁?・説明碑 G南北朝期/平井氏(栗田氏) H満足度:凸 南北朝期、平居城の平井実次の子の実清が築城したとされます。文明十二年(1480年)頃、栗田六郎は居館から城に改修しました。永禄十一年(1568年)、栗田秀元は織田信長の近江侵攻で六角氏方として戦いました。この頃、栗田城は廃城になったようです。<現地案内板より> |
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J訪城:2025/09 | |||
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河瀬城 f4228 |
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A彦根市川瀬馬場町(河瀬神社) or彦根市南川瀬町(法蔵寺) 河瀬城は遺構等が無いからと思って足が向かなかったんですが、甘呂城、宇尾城、蓮台寺城と支城を廻って、本城に行かないわけにはいかんと思い、訪城してみました。それらしい遺構はなさそうです。支城に石碑があるんだから本城にも石碑くらい立てられればとは思います。(笑) ただ、城域としては河瀬神社周辺と法蔵寺周辺の2か所が考えられるようです。2カ所は相当に離れているため2カ所でひとつの城という事は無いです。2012年に彦根教育委員会の発掘調査で河瀬神社周辺からの遺構は河瀬城の遺構と思われるとの事です。ただ、法蔵寺周辺の道がなんとも屈曲していてこっちの方が城らしい気がします。一説には河瀬南城という説もあるようです。 |
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C平城 F遺構等:なし G南北朝期・戦国期/池田氏・河瀬氏 H満足度:凸 南北朝期、京極氏四代宗氏の子の定信が河瀬城を築き、池田氏を名乗ったとされます。文亀年間(1501〜04年)以降で多賀大社から自立した河瀬大和守秀宗が在城したとされます。甘呂城、蓮台寺城などの支城も築き、勢力を拡大したようです。天文二十一年(1552年)、三好長慶勢に攻められ降伏、天正二年(1574年)、城に法蔵寺を受け入れたとされます。その後しばらくして河瀬城は廃城になったようです。 |
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J訪城:2025/09 | |||
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平田山城(雨壺山) f3934 |
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A彦根市山ノ脇町 B新神社 国道8号線の高宮町の信号で県道528号線へ南彦根駅方面へ曲がります。約1.7km先、小泉町の信号で右折し県道206号線に入ります。約800m先が雨壺山の信号で、ここで右折し約800m先の左手が新神社です。雨壺山の信号を直進して約1km先の橋向町の信号で右折し、約200m先の右手が長久寺です。 新神社から裏手へ登るとすぐに雨壺山です。ここからさらに尾根を西に進むと平田山城と言われますが遺構らしきものはなかったです。 長久寺の裏手を登ると「湖水講大先達」などの日が立つ広場に出ます。これの左手、尾根先端側に説明板があり、佐和山城、彦根城が望めます。 |
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C山城 F遺構等:郭? G戦国期/平田氏? H満足度:凸 雨壺山東方展望台(徳川家康陣所説明板) 彦根市芹川町(せりかわ)後三条町 B:長久寺 ![]() 平田山城は平田氏の詰め城、陣城とも言われますが定かではないようです。 慶長五年(1600年)、関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は石田三成の佐和山城の攻撃のためここに陣を張ったと言われます。 |
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J訪城:2023/05 2023/11 |
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