近江の城39  

                                                                               

田附城  f4223
説明板

城域と言われる区域
A彦根市田附町〜南三ツ谷町
B
彦根市内から湖岸道路である県道25号線を近江八幡方面に進みます。新海町の信号で左折し、県道193号線に入ります。約3km先、右手田附町集落を越えて左カーブの後、左手に墓地があります。この墓地の入口に説明板があります。城域は、この墓地の北東側、南三ケ谷町の常光寺の南側の田んぼ一帯だったようです。今は遺構はありません。

C平城
F遺構等:説明板 
G平安期/田付氏 
H満足度:凸
田付小孫太宗重が築いたとされます。(長暦三年(1039年)頃らしい) 佐々木氏(六角氏)に従っていましたが、文亀三年(1503年)、九代重房は軍律を犯したと六角氏綱より城・領地を没収されました。永正元年(1504年)、氏綱は伊庭景定の子の景春に田付氏を継がせて田附城の城主としました。天正元年(1573年)、伊庭系田付氏三代景輔の時、織田信長に攻められ落城、景輔は伊勢に逃れました。田付氏は砲術に長けており、景輔の子の景規は安芸福島正則に仕え、福島氏改易後は幕府の砲術指南役として幕末まで続きました。<現地案内板より>

J訪城:2025/08
←説明板のある場所
  
宇尾城(河瀬大和守秀則屋敷) f4224
河瀬大和守秀則屋敷址の碑
白山神社
A彦根市宇尾町
別名:大宇城  B白山神社
国道8号線の高宮町の信号で県道528号線へ南彦根駅方面へ曲がります。約1.7km先、小泉町の信号で左折し県道206号線に入ります。約1km先の西今町南の信号を直進します。約300m先、宇尾のバス停近くで右折します。すぐの右手が白山神社です。この前の道が広いですがすぐに集落内は狭い道になります。右折から約100m右へ入った果樹園の右手端に河瀬大和守秀則屋敷址の石碑が立っています。果樹園と白山神社前の道の間がやや下がっていて真ん中にまるで土橋のような道が通ってます。土橋は後世としても両サイドは堀跡のようにみえます。

C平城
F遺構等:石碑
G戦国期/河瀬氏(大宇氏) 
H満足度:凸
河瀬氏一族の河瀬大和守高秀、秀則の二代の居館であったようです。高秀は一時甘呂城を居城としたようですが、後に当地に移って大宇氏を名乗ったようです。河瀬氏、蓮台寺氏、大宇氏は浅井氏方で、秀則は織田信長の小谷城攻めの際に討死したと伝わるようです。

J訪城:2025/08
    果樹園手前の段差(堀跡?)    土橋のような通路(後世のものでしょうけど)
蓮台寺城  f4225 
城址碑
城域遠望
A彦根市蓮台寺町
B
国道8号線の犬方町南から荒神山通りに入ります。約1.5km先の堀町の信号で左折し県道206号線に入ります。約200m先を右折します。約50m入った右手奥の農地が城跡です。農地の片隅に河瀬蓮台寺城址の石碑が立っています。この農地、周りより一段高く、周囲が堀跡のようにも見えます。

C平城
F遺構等:碑 
G室町期/河瀬氏(蓮台寺氏) 
H満足度:凸
河瀬氏によって築かれたようです。城主には河瀬壱岐守房盛の名があり、蓮台寺氏を名乗ったようです。京極高光の次男、高房も養子に入り、蓮台寺壱岐守高房と名乗っていたようです。蓮台寺氏も京極氏が衰えた後は浅井氏に従いますが、織田信長の小谷城攻めの際に討死したと伝わるようです。
J訪城:2025/08