岐阜の城006  

                                                                               

揖斐陣屋・揖斐西尾城  0461
揖斐陣屋城址碑

三輪神社の土塁(背後)と説明碑
土塁の痕跡と三輪神社本殿
三輪神社花手水
別名:揖斐西尾城
A揖斐郡揖斐川町三輪 B揖斐小近くの病院横に石碑有り  C平城
大垣市内の国道21号線の河間の信号で右折し国道417号線を進みます。国道417号線を道なりに進み14Km先、揖斐川を越えた先の上新町の信号で国道303号線を越えかつ旧道(県道251号線)を横切り信号から300m先の揖斐小学校まで行きます。小学校の西隣に三輪神社があります。小学校沿いの路地を300m東に行くといったん左折しすぐ右折した道の先がL字に曲がっています。この角の病院横に城址碑が立っています。陣屋は小学校の敷地です。西尾城は三輪神社の本殿の南側に説明碑があり、その背後が土塁の名残であるようです。

F遺構等:土居・堀・碑  G江戸期/西尾氏・岡田氏  H満足度:凸

西尾光教が関ヶ原の戦いでの戦功により1万石を加増され3万石の領主として曽根城より移り、この地に築城しました。光教の後は養子の嘉教が後を継ぎますが、元和九年(1623年)に嘉教が死去し無嗣子断絶となりました。その後は幕府領となり、さらに寛永八年(1631年)、岡田将監善同(よしあつ)が5100石で代官として入りました。善同は西尾氏の居館に陣屋を構えました。二代善政は加増を受け、三代善次となり、弟の善紀は1200石分与され清水陣屋を築きました。岡田氏は明治維新までこの地に住しました。

J訪城:2004/07・2020/11・2023/09
土塁の痕跡
垂水城  1042
城址碑
A不破郡垂井町垂井 B専精寺  C平城
大垣方面から国道21号線で来ると、御所野の信号で右折し県道257号に入ります。200m先でJR東海道本線を陸橋で渡ると道は左カーブし100m左手に垂井の泉があります。この垂井の泉の手前に「専精寺への坂道があります。このお寺が城址です。駐車場に城址碑と説明板があります。


F遺構等:碑・説明板  G戦国期/平塚氏  H満足度:凸

関が原の合戦で活躍した西軍の武将平塚為広が居城したといわれています。平塚為広は、豊臣秀吉に仕えて1万2千石の垂井城主となりました。大谷吉継とともに西軍に属し、伏見城の戦い・大垣城の譲渡交渉など活躍しました。合戦当日は、病気の吉継に代わり大谷隊を指揮しました。小早川秀秋が寝返り大谷隊へ攻め込んできたため応戦したものの為広は討死しました。 <現地案内板より>


J訪城:2005/09
   
長屋氏屋敷  0902 
城址碑
A 不破郡垂井町垂井  C平城
大垣方面から国道21号線で来ると、御所野の信号で右折し県道257号に入ります。200m先でJR東海道本線を陸橋で渡ると道は左カーブし100m左手に垂井の泉があります。この垂井の泉を通り越して2つ目の路地を左折します。左手の永法寺を過ぎもう少し進むと右手に城址碑と説明板があります。


F遺構等:碑・説明板  G室町期/長屋氏  H満足度:凸

垂井の長者である長屋氏の屋敷で、文和二年(1353年)に北朝の後光厳天皇が南朝に京都を奪われた際、この屋敷を仮御所として滞在されました。その後小島城の土岐頼康も元に移られ、垂井頓宮が頼康によって造営され天皇は垂井に戻られました。大軍を率いて到着した足利尊氏とともに京都に向かいました。 長屋氏は戦国期に相羽城に移っています。

J訪城:2004/11

揖斐・上野城  3688
城址碑
標識
A揖斐郡揖斐川町上野 B上野城山団地 信楽寺の東の住宅街の路地  C平城

F遺構等:碑  Gーー期/ーー氏  H満足度:凸

J訪城:2020/11