道案内 |
高山方面より国道41号線で来ると朝霧橋の信号を左折し約50m先のT字をいったん左折し約200m先を右折、50m先を斜め右手に下りて行くと桜谷公園です。右手の最初の橋の先に台地に登る石段があります。車で城跡横づけは、朝霧橋の信号で左折し、約50m先のT字をいったん左折し、約20mで右折し台地下を約300m進んで、市役所萩原支所の裏手で左折し坂を登り、高山線を越え、萩原浄水場前で左折し細道を進むと城跡前です。道が狭そうなので、安全なのは桜谷公園から行った方がいいかもしれません。
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訪城備忘録 |
国道からでも城跡は見えているのですが、どうやって行けばいいのか道がわかりません。二十年ほど前に来た時も行き方がわからず時間がなく断念しました。今回も周囲をウロウロしましたが、結局は桜谷公園から崩れかけた石段の道で行きました。台地の上に登ると一面田園が広がっています。その台地端の茂みの中にわずかにL字に空堀とどこまで当時のものかはありますが、石積みがあります。往時は主郭が150m四方の大きな館城であったようです。台地下には高山線線路がありますが、これも城域を破壊して作られたようです。台地端から高山線の線路そばまで降りる通路に石積み、あるいは、大石が散乱してますが、当時のものか定かではないです。残る空堀の端にも石積み痕跡が残りますが、これは往時のもののように思えます。遺構のある茂みから100mほど南側の台地端にも堀の痕跡のような窪地があります。
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茂みの入口に立つ城址碑
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築城時期は定かではないようです。永正年間(1504〜21年)に三木直頼が築城したともされますが、初代の久頼の築城ともあるようです。< 三木氏は「みつき」と読むとのことです。飛騨守護となった京極氏の守護代多賀氏(京極氏の傍流とも言われます)、その家臣の三木氏(多賀氏の傍流とも言われます)が飛騨南部に入りました。飛騨三木氏は久頼ー重頼ー直頼ー良頼ー自綱(よりつな)ー秀頼と続きます。なお、良頼は古川姉小路氏を継いで、自綱は姉小路頼綱と名を改めています。> 天正七年(1579年)、自綱は本拠地を桜洞城から松倉城に移し、桜洞城には嫡男信綱に与えますが、信綱が謀反の疑いで誅殺され、その後は松倉城を夏の城と言うのに対し、冬の城(冬城)として存続します。天正十三年(1585年)に金森長近に攻められ落城したとされます。 その後、萩原諏訪城が築城され廃城となりました。
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