道案内 |
東海北陸道の郡上八幡インタで下り、国道156号線を郡上八幡市街方面へ進みます。600m先の城南の信号で左折し国道256号線に入ります。1.5Km先の右手の市役所を通り過ぎ、八幡大橋南の信号で斜め右を進みます。21km先、道の駅和良の入口を越え、鹿倉川を渡ります。 道の駅入口から700m先、戸隠神社入口で左折します。250m先が戸隠神社で神社の左手に登城道があります。
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訪城備忘録 |
道の駅の東側に見える山から延びる尾根先端近くのピークが城跡です。戸隠神社の左手に城跡への道(標識有り)があります。動物よけのフェンスを越えて左手方向に登っていきます。最初の尾根まで登ると右手に境城登り口という標識があります。比高300mほどの山の頂上に境城はあるようです。野尻城は左手の急斜面を登ります。馬場、四の郭の平坦地を経由してさらに登ると主郭下の説明板と城址碑のところに至ります。ピークに主郭があり、南側へ堀切を隔てて二の郭、三の郭があります。二の郭は二段になってますが削平度は不完全に見えます。三の郭は削平もされ土塁が巡ります。主郭は楕円形で思った以上に広く感じ、半円に土塁が巡ります。小さな城ですが、縄張りとしての完成度は高いと感じます。
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説明板と城址碑
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応永年間後期(1430〜34年)頃に和良氏が境城の出城として築城したもののようです。応仁二年(1468年)には美濃守護代の斉藤妙春に攻められ落城し和良為光は討死しました。永禄二年(1559年)には遠藤氏によって東氏が滅亡し、郡上は遠藤氏が支配しますが、その一翼として野尻城は再築されたようです。<説明板には遠藤清左衛門胤善とあります> 天正十一年(1583年)に遠藤氏は加茂郡に転封となり、慶長五年(1600年)の関が原の戦いの際に郡上奪還を目指して遠藤慶隆は東軍として西軍に属した稲葉貞道の郡上八幡城を攻める際にこの野尻城に陣を張ったようです。関が原の戦い後に郡上八幡に復帰した慶隆は慶長十年(1605年)頃に遠藤杢之助に野尻城を改修するよう命じました。しかし、元和元年(1615年)の一国一城令で城は廃城になりました。
<現地案内板より>
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