美濃 / 栗原城



ファイルNo1969

竹中半兵衛隠棲の場所でもある

                         連理の枝   

@ くりはらじょう 
  別名:長曽我部盛親陣 

A住所:不破郡垂井町栗原
B目標地点:
C形式:山城  D比高:140m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁?・説明板
G時代/人物:戦国期/長曽我部氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  県道の入口から20分

J撮影・訪問時期:2008年09月

  

道案内  ←登り口

名神高速道関が原インタを下り、国道365号線から国道21号線に出て大垣方面に向かいます。6.3km先の宮代の信号で右折し県道215号線に入ります。3km先、左手に八幡神社のところに右に「九十九坊・連理のサカキ」の案内板がありますので、ここに入ります。細い坂道を300mほど登りますので、車は県道近くに止めたほうがいいかもしれません。

訪城コメント

県道から細い坂道を登って来ると、長曽我部盛親陣の説明板のところに至ります。ここは廃寺でもあるようです。ここから連理のサカキ・九十九坊の案内に従い登ります。15分ほどで九十九坊跡に至り、そこから5分で連理のサカキに至ります。この連理のサカキの周辺が長曽我部の陣跡であり、また、竹中半兵衛の隠棲地の伝承があります。九十九坊があったという事で、登ってくるまでの山中には至り所に平坦地があります。九十九坊は奈良時代からの寺で、南北朝期の足利氏、新田氏の争乱に巻き込まれ、足利氏にて焼き払われたと伝わります。なお、連理のサカキは樹齢400年の木で、幹が根元で二つに分かれていて、一方の幹から出た枝が、他方の幹にゆ着している連理の状態になっているものです。ここに来てみて、長曽我部氏が関が原の戦いの際なんで陣取りがここだったんかと思っていたことが分かる感じです。伊勢から北上し、また、戦意もないだけでなく、廃寺跡であるため、6000人が野営できる平坦地が元々あったという事なんですね。

長曽我部陣説明板
歴史

慶長五年(1600年)の関が原の戦いの際の長曽我部盛親の陣所です。盛親は土佐二十二万石も国主であり、西軍に付いていましたが、戦後、改易となり、土佐一国は召し上げられました。

竹中半兵衛の隠棲地としての伝承は、永禄七年(1564年)、主君斎藤龍興に対しての制裁で岐阜城を一時期乗っ取ったもので、その後、龍興に城は返還するも、斎藤家を去り、ここに隠棲したというものです。


陣の土塁?                   陣の竪土塁?
栗原山遠望(まっすぐ登ります)                坊跡     

  
竹中半兵衛隠匿の地の説明板             九十九坊の五輪塔と石仏

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