美濃/ | 小里城 |
ファイルNo0931 |
謎の天守台が残る
① おりじょう |
道案内 ←登り口 | |||
中央道高速の瑞浪インタで下り、県道47号線で国道19号に向かいます。薬師の信号で左折し国道19号線に入り、中津川方面に進みます。2.5Km先の小里川を越えてすぐの市原の信号を右折し県道20号に入ります。1.5Km先の下小里の信号で県道20号はいったん右折し、300m先の小里の信号で左折します。そのまま県道20号線を2.7Km先、道沿いの右手に小里城登城口という看板があるのでここより登ります。居館跡を過ぎ山道を進みます。 あとはひたすら山頂まで登るのみです。 小里城登り口で県道を挟んだ反対側に駐車場もできてます。 |
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訪城備忘録 | |||
2018年に久しぶりに訪城しました。徐々に整備されてますが、あまり、過激な整備でないのがありがたいです。ただ、幟がやたらに多い・・・。^^; この城は安土城以前に構築された織田氏の天守台で、築城中に工事が中止となり未完成の城と言われます。山上の主郭には小ぶりながらしっかりとした天守台が残っていますが、周囲には大石が多数散乱したままで、縄張りもしっかり構築された感じではなく、この天守台が唐突な感じで残っています。 これは天正二年から三年にかけての改修の残骸なのでしょうか? ただ、社の造営などで天守台は近世に構築された、あるいは、相当に修築されたという話もあるらしいです。 麓には前面に石垣がある居館(御殿場)があります。この居館(御殿場)は江戸期の旗本小里氏の居館です。県道から石垣で構築された桝形状を登ると二段の郭がきれいに残ります。 この居館(御殿場)の谷を挟んだ東側に東砦があります。丘陵先端の平坦地と尾根を少し登ったところに堀切があります。山上の遺構と麓の居館の間の山中には遺構らしきものはありません。元々、居館と詰め城という中世的城が戦国後期の臨戦態勢の砦として改修され、後、江戸期に旗本陣屋として居館部が改修されたようです。 本丸前の二の郭の下、西下から南側斜面に石垣が鉢巻石垣のように廻ってます。本丸下まで続いています。また、本丸の南側下が搦め手とされ、そこを本丸から比高で20mほど斜面を降りると大堀切があります。この大堀切、人が手を加えたとしても元々の鞍部やったんでしょうね。搦め手の標識は立ってましたが、本丸からは道がないため斜面を降りるしかなく、やや危険です。さらに、本丸東側斜面を降りていくと腰郭の標識のある平坦地があり、その下も段郭のようには見えます。 天守台とその周囲の鉢巻石垣のみが突出した遺構で、本丸とされるところも平坦地はあるもののそれ以上のものはなく東側は緩やかな斜面で大石がそこかしこに転がり、大岩が露出している状態で山上は不思議な空間です。 |
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築城時期は定かではないようですが、小里光忠が天文三年(1534年)に築城したとの説もあるようです。 土岐氏一族の小里氏の居城で、史料では光忠・光明親子は弘治年間(1555~58年)には武田氏に従いましたが、永禄八年(1565年)頃から織田信長に従ったとされます。 天正二年(1574年)に武田氏によって明知城が落とされた際に、織田信忠が小里城に本陣を置き、その後、城は改修され池田恒興が守備したとされますが、この時の小里氏の処遇ははっきりしていないようです。天正十年(1582年)の本能寺の変後、森氏に攻められ、天正十一年(1583年)、小里氏は徳川家康に従い、小里城を去るものの、関が原の戦い後に小里光明は3850石でこの地に復帰しました。 この時に再度改修されたと記述する史料もあるようです。 光明の子の光重が元和九年(1623年)に没し、小里氏は断絶し城も廃城になったとされます。 |
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