道案内 ←登り口 |
名神高速道関が原インタを下り、国道365号線を上石津町方面に進みます。インタ前の信号から350mで高速道のガードを越えて250m先を右折します。「戦国ロード」と言う呼び名の道で国道21号線の藤下の信号まで繋がってます。2.4km先に大きな標識があり、ここを左折します。すぐ右手に駐車場があります。
あるいは、国道21号線松尾の信号を南に入ります。約1.1km先で名神高速道のガードをくぐります。前面の山が松尾山で林道が前方に伸びています。
駐車場から約1.5kmで主郭です。
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訪城備忘録 |
主郭は周囲の土塁、枡形虎口が綺麗に整備されています。主郭のある尾根だけでなく、主郭の谷向こうにある西側郭群も整備されました。
駐車場からしっかりした登山道を登ります。 登城口から約600m先で道が二股で、左手は行き止まりで右手方向に登ります。約100m先で直進は切通を抜ける道ですが、ここで右折した登山道を進みます。ここから約850mと表記あります。この先、アップダウンのある山道を登って行きます。主郭まで約240mという標識を過ぎて少し行くと小さなピークを越えますが、ここの右手の尾根には平坦地があり、出郭的に見えます。さらに、主郭への最後の急坂の手前の左側が東尾根郭群です。登城道沿いの郭は両サイドに低い土塁があります。ここから奥に入ると一段高い郭があり、ここも両サイドに低い土塁があります。その先下に不明瞭ですが土塁囲みの郭があり、その先はやはり不明瞭な堀切状がありました。その先は長い平坦地になってました。
戻り、最後の急坂を登ると主郭です。周囲をしっかりとした分厚い土塁が巡ってます。南側にはこれも明瞭な枡形虎口になってます。この辺は整備の賜物でしょうけど、奇麗です。
枡形虎口を南側に下りると土橋状になってます。その先に馬出し状郭という標識が立ってる郭があり、その先に明瞭な堀切と土橋があります。
馬出し郭の端から西に下りて行く小道があり、それを行くと主郭尾根の西下の谷部です。この北側には土塁囲みの郭がありました。
谷部の西側には南北に尾根があり、中間に深い堀切(半分自然地形)があり、北郭と南郭に分かれています。西郭群の北郭は、北下から東下の一部まで腰郭があり、北郭自身は大きな楕円形の郭で東側の真ん中に虎口があります。北端には土塁を伴う大きな窪みがありますが、よくわからんです。西側に北から半分ほどに低い土塁がありました。また、南端、堀切側にも低い土塁があります。北郭の東下から廻り込むと大きな堀切です。堀切の中に土橋がある感じで、自然地形を利用して加工したものの感じがします。
西郭群の南郭の郭は大きく南北の二つの郭に見えますが、高低差が若干あり、くの字に曲がっているためにそう見えましたが、説明板の縄張図からするとひとつの郭のようです。南郭の南端には主郭南側よりは規模は小さいですが、虎口、坂土橋、西側に堅堀が残り、その先に東側に落ちる堅堀も明瞭でした。
先ほどの主郭尾根と西郭群の尾根に挟まれた谷部ですが、空堀という説明板が立ってました。自然地形を利用して加工した空堀なんでしょうね。
以前、二度ほど登りましたが、主郭周辺止まりで、東尾根郭群も入口の郭を見た程度で、こんな城で小早川軍の1万5千が収容できるのかと思ってましたが、今回の訪城で広さを実感しました。そりゃそうだわなの広さでした。
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城址碑
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応永年間(1394〜1428年)に富島氏城が築いたとされます。元亀元年(1570年)に浅井長政が修築し樋口氏が守将としますが樋口氏は織田氏に寝返り、天正元年(1573年)に浅井氏討伐後は不破河内守光治が守備したと伝えられます。天正四年(1567年)頃に境城の役目は終わり、天正七年(1579年)には廃城とされました。慶長五年(1600年)に関が原の合戦直前に小早川秀秋の陣所とされ、関が原の戦いでは小早川氏は西軍から東軍に寝返り大谷氏に攻撃を加えました。 <現地案内板より>
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