美濃/ | 大垣城 |
ファイルNo0497 |
@ おおがきじょう |
道案内 | |||
岐阜市より国道21号線で来た場合、大垣市内の楽田町の信号で左折し国道258号線に入ります。3.6Km先の中電前の信号で右折し県道237号線に入ります。600m先右手が大垣公園です。 |
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訪城備忘録 | |||
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城跡は城域の大半が市街化され本丸周辺が残るのみで、二の丸等は大垣公園になってます。戦前までは現存で国宝であった天守も戦災で燃えてしまったため、現在は復元天守が建ちます。本丸には櫓、櫓門も復元されています。天守のある天守曲輪が一段高く、その周囲を巡る一段下の郭を含めて本丸とすべきでしょうね。この城の石垣は石灰石が主体です。ほとんどが積み直しのようで、石が妙に白かったり、黒すぎたりのまだらの感じで、どうもしっくり感じないです。石垣の石には化石が残っている石が何か所かあるようですが、見つけられてません。また、刻紋もあるようです。さらに、大垣市内、及び、周辺の数か所に門が移築されたりしています。 |
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天文四年(1535年)に土岐氏一族の宮川安定が築城し、永禄二年(1559年)に氏家直元が拡張したとされます。天正十三年(1585年)に一柳直末が城主となり天守を建てました。天正十八年(1590年)以降は伊藤祐盛が城主となり、子の盛宗の代に関が原の戦いを迎え、盛宗は西軍に付き大垣城は西軍の拠点となりますが、盛宗は関が原の戦い直後に東軍に攻められ敗死しました。慶長六年(1601年)に石川康通が入り、慶長十八年(1613年)に三代石川忠宗が大垣城を完成させました。その後、松平(久松)氏、岡部氏、再び松平(久松)氏の後、寛永十二年(1635年)に戸田氏鉄が入封し戸田氏が明治維新まで続きました。 天守は戦前まで現存でしたが、空襲で焼失し、昭和三十四年(1959年)外観復元されました。平成二十二年(2010年)により元の形に近いよう改修されました。 |
大垣城移築門 |
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