美濃/ 大垣城



ファイルNo0497


     復元天守(改修前)

@ おおがきじょう 
  別名 巨鹿城・び城

A住所: 大垣市郭町 
B目標地点:大垣公園
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・宅地

F遺構等:石垣・復元天守・土塁・移築門・説明板
G時代/人物:戦国期・江戸期/宮川氏・石川氏
H満足度:
凸△
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  最寄りの有料駐車場から10分


J撮影・訪問時期:
2003年06月・2020年08月

  

道案内  

岐阜市より国道21号線で来た場合、大垣市内の楽田町の信号で左折し国道258号線に入ります。3.6Km先の中電前の信号で右折し県道237号線に入ります。600m先右手が大垣公園です。
 
訪城備忘録
天守石垣

城跡は城域の大半が市街化され本丸周辺が残るのみで、二の丸等は大垣公園になってます。戦前までは現存で国宝であった天守も戦災で燃えてしまったため、現在は復元天守が建ちます。本丸には櫓、櫓門も復元されています。天守のある天守曲輪が一段高く、その周囲を巡る一段下の郭を含めて本丸とすべきでしょうね。この城の石垣は石灰石が主体です。ほとんどが積み直しのようで、石が妙に白かったり、黒すぎたりのまだらの感じで、どうもしっくり感じないです。石垣の石には化石が残っている石が何か所かあるようですが、見つけられてません。また、刻紋もあるようです。さらに、大垣市内、及び、周辺の数か所に門が移築されたりしています。

現地案内板より
歴史

天文四年(1535年)に土岐氏一族の宮川安定が築城し、永禄二年(1559年)に氏家直元が拡張したとされます。天正十三年(1585年)に一柳直末が城主となり天守を建てました。天正十八年(1590年)以降は伊藤祐盛が城主となり、子の盛宗の代に関が原の戦いを迎え、盛宗は西軍に付き大垣城は西軍の拠点となりますが、盛宗は関が原の戦い直後に東軍に攻められ敗死しました。慶長六年(1601年)に石川康通が入り、慶長十八年(1613年)に三代石川忠宗が大垣城を完成させました。その後、松平(久松)氏、岡部氏、再び松平(久松)氏の後、寛永十二年(1635年)に戸田氏鉄が入封し戸田氏が明治維新まで続きました。
天守は戦前まで現存でしたが、空襲で焼失し、昭和三十四年(1959年)外観復元されました。平成二十二年(2010年)により元の形に近いよう改修されました。

復元天守(改修後)
往時の大垣城
模擬東門(大小姓多聞櫓があった位置)
丑寅櫓(艮櫓)
模擬西門(元々埋門はあったようですが)
  
戌亥櫓(乾櫓)
水の手門
北面石垣
七間多聞
辰巳櫓石垣
東埋門石垣
東埋門石垣
鉄砲多聞石垣
天守石垣
天守東面
大垣城移築門
揖斐郡大野町大字西方 (重文:牧村家住宅の門)  
瑞穂市穂積(個人宅)  
大垣市長松町 (平林荘跡) 七口門のひとつで清水口門と言われるよう   
大垣市青野町(個人宅) 乾門  
各務原市鵜沼西1丁目 (鵜沼宿)  鉄門  
鵜沼宿に移設される前に個人宅にあった頃の鉄門

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