道案内 |
大垣市内の国道21号線の河間の信号で右折し国道417号線を進みます。国道417号線を道なりに進み14Km先、揖斐川を越えた先の上新町の信号で国道303号線を越え県道251号線に入ります。県道は100m先で十字路を右折になり揖斐川市街地を走ります。500m先で県道は左折となります。約7Km先の谷汲山華厳寺の門がある前の信号を右折し県道40号に入ります。2.4Km先の谷汲山大橋の手前を左折して県道255号に入ります。1.2Km先の左手に旧長瀬小学校があり、この学校の東側の田畑及び北側の丘陵が城跡とされます。 最近、丘陵の麓に温泉施設(谷汲温泉)ができており、そこから麓の遊歩道を東に歩いて行くと城址碑のところに至ります。
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訪城備忘録 |
山裾の遊歩道沿い砦跡の碑
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主郭(本丸)は府内川近くの樽見鉄道の踏み切りの東側だったようですが今は田畑に変わり面影はありません。本丸の東側に、二の丸、二の丸の南側に三の丸があったようですが、いずれも本丸同様田園となっています。丘陵には上屋敷を中心に、西に長山砦・丸山砦、東には大山砦があったようです。上屋敷推定地には稚児池という池が残るようですが、夏場で草木が伸び放題であったため確認する事ができませんでした。 長山寺跡に長瀬城の城址碑と城主一族の墓が残ります。
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二の丸付近と丘陵遠望
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延元二年(1337年)の谷汲の合戦前に南朝方の武将で、宇津志城主(根尾)の堀口貞満がこの地に何らかの砦を築いたのが最初と考えられます。 文和二年(1353年)に北朝後光厳天皇が小島城に逃れた際に鷹司忠経が随行し長瀬に住み、忠経の子の冬基が長瀬城主となり土豪化し、土岐氏、その後、斉藤氏に属しました。天文十六年(1547年)に斉藤氏に属していた九代正光は土岐氏を庇護するという名目で攻め入ってきた織田勢と戦い、正光と弟の光政は討死iし長瀬城も落城して廃城となりました。
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