道案内 |
岐阜駅より国道256号線を北に進み、長良橋で長良川を渡り、600m先の長良北町で左折し県道78号線に入ります。3Km先の折立稲場の二股の信号(右が県道78号線、直進が県道91号線)で直進し黒野の中心部に入ります。600m先で路地を右折した工場裏手の公園が城跡です。
(あるいは、国道21号線の勢田の信号で県道7号線に入り北に向かいます。3km先で猿島大橋で長良川を渡り、4.5km先の正木土居の信号で左折し県道78号線に入ります。1.4km先の信号が折立稲場の信号です。) 城跡前にあった工場は無くなり更地になってました。(2019年06月現在) 土日のみ東側の専門学校が臨時駐車場として開放されています。
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訪城備忘録 |
工場・住宅に囲まれた公園で進入口が分かりにくいです。また、周囲は道が狭く駐車がしにくいです。城跡は住宅地の真ん中に驚くほどきれいな形で残っています。主郭を囲む土塁は2m以上あり、主郭内はグランドになっていますが、広さ(110m四方)を感じます。土塁の外側には水堀が巡り、西側の堀・土塁には折れが入り、北側の堀は幅もあり、見応えありました。この主郭部分である黒野城城跡公園から北に200mほどのところにある多賀神社の本殿の後ろと多賀神社の西側にある熊野神社前には外堀跡が残っています。幅は狭くなっていますが、往時の城域が判ります。さらには、黒野城跡公園の北東300mのところにある超勝寺の北西150m(県道78号線近く)のところの柿畑付近にも堀と土塁がありました。また、公園の西側の加藤光順寺・専長寺付近を巡る水路も堀跡です。
2019年に訪城した際には、工場が無くなっていましたし、本丸内いろんな箇所(櫓跡とか)に説明板が設置があるだけでなく、外堀・土塁の4ケ所に説明板が新たに設置されてました。
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城址碑
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文禄二年(1593年)の文禄の役の時に甲斐24万石の加藤光泰は病死し、嫡子貞泰は文禄三年(1594年)にこの地に4万石に大きく減封された上で転封となりました。この時、貞泰が黒野城を築城しました。貞泰は関が原では東軍に属し、慶長十五年(1610年)に六万石で米子城に転封され、黒野城は廃城になりました。 貞泰は元和三年(1617年)に伊予大洲六万石に転封され、加藤家は大洲で明治維新まで続きました。
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