道案内 |
東海環状自動車道の可児御嵩インタを下り、料金所より左折して国道21号線バイパスを進みます。1.4Km先の古屋敷の信号で左折し、1Km先で名鉄線踏み切りを渡り、すぐの大庭の信号で左折し国道21号線旧道に入ります。700m先の顔戸のバス停を過ぎたところで右折し、100mほどで左手に説明石碑とその後ろに空堀が残ります。城域内部にはさらに国道を200m先で路地に右折し坂を登ると城域内に入れます。
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訪城備忘録 |
可児川の河川段丘上の先端に東西南北が約150mの大きな方形の館城がほぼ完全な形で残っています。空堀は東南側の城址説明碑のあるところのものは整備され見やすい状態で、幅10m程度で深さ2m程度あり明瞭です。東側・北側の堀は竹林・雑木林になっていますが、これも完全な形で残っていますし西側の堀も同様のようです。土塁は東側、北側半分及び西側がほぼ残っていると言えます。城域内は宅地と畑地になっていますが、この館城の広さは実感できます。広さからして相当の実力者の館があったことは容易に想像できる規模です。
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現地案内碑より
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斎藤妙椿の城とされますが定かではないようです。但し、館の大きさを見ると守護代後見の妙椿の館としても不思議ではないですね。史料には高木主水正が城主とされるものもあるようです。
<現地案内碑 全文> 応仁の乱(1467〜1477年)の頃、中央政権をも揺るがすと云われた武将が、ここの顔戸の地で活躍していました。その武将が歴史に今も名を残す斉藤妙椿その人です。妙椿は、ここの顔戸の地に東・北・西の三方に戦いに備えるための豪壮な空堀と土塁を設け、南は可児川の自然の流れを防御施設に利用した平城「顔戸城」を築城し、東美濃の守りの拠点としました。城の規模は東西およそ150m・南北およそ167mの規模を有し、空堀と高く盛られた土塁に囲まれた内側に館を構えた平坦面があり、豪壮な中世平城の姿を今に伝え「構」と呼ばれ、東美濃でも有数の平城としてその名を馳せています。
妙椿はもとは八百津の浄土宗善恵寺で僧侶としての修行をしていましたが、長禄四年(1460年)守護代を努めていた兄利永が世を去ったため、仏道を捨て、政界に乗り出し頭角を現した人です。 (御嵩町・御嵩観光協会)
<補則>
妙椿は早くから仏門に入っていて兄の利永が急死したため、利永の子の利藤を後見するために武将に戻ったと考えられています。この顔戸城は妙椿の隠居城であったようで、妙椿は文明十二年(1478年)に亡くなっています。
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