信濃 高梨氏館



ファイルNo3990


             土塁と空堀               

@ たかなししやかた
  別名 中野小館 高梨館 高梨城 御館 

A住所:中野市小館
B目標地点:高梨館跡公園
C形式:平山城  D比高:ーーm 
E現況:公園

F遺構等:郭・土塁・堀・庭園・碑・説明板
G時代/人物:期/高梨氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2023年12月

  

道案内 

上信越自動車道の信州中野インタを下り、信州中野インタ口の信号を右折し県道29号線に入ります。約6km先、中町の信号を直進し、約400m先の左手が高梨館跡公園です。 長野電鉄の信州中野駅から東に約800mです。 長野駅から信州中野駅までの特急は特急料金100円追加で乗車可能です。
 
訪城備忘録

全国で武家庭園の残る城館は少ないと言われてますが、ここはその庭園跡が残ります。庭園は枯山水であったようです。現在残る館は、方形の単郭で1辺100m強(内部は1辺80mほど)の広さがあり、周囲を土塁、その外側には空堀が巡ります。 庭園、井戸、発掘調査で建物跡も確認され、一部は柱復元展示されています。 確かに大きな館で、発掘調査、整備され、国史跡にもなってますので、土塁は高く、空堀も深いです。ただ、大きな単郭方形の館という価値はわかるんですが、感激という点ては少し物足りなかったかな・・・。

虎口前の城址碑
歴史

正確な築城時期は定かでは無いようですが、この地の豪族の中野氏を永正十年(1513年)に倒し、館は、永正年間(1504〜21年)に高梨政盛が築き、中野市の間山館より本拠地を移したようです。高梨氏は清和源氏井上氏の一族とされますが、異説もあるようです。 平安末期、鎌倉期、室町期(南北朝)と生き抜き、北信濃で勢力を張ったものです。 応永七年(1400年)、守護職小笠原長秀と信濃の豪族との争いで合った大塔合戦にも村上氏、海野氏らと参戦しています。 正盛時代が高梨氏の全盛期とあり、高梨氏館は、正盛の孫の正頼までは在城しましたが、弘治年間(1555〜58年)には武田信玄の侵攻があり、飯山に移り、その後、長尾景虎(上杉謙信)の支援を受けながら、一時、本拠を回復もします。しかしながら、上杉氏の家臣化をしていったようです。天正十年(1582年)には本能寺の変、天正壬牛の乱を経て、高梨氏はこの地に復帰しました。しかし、慶長三年(1598年)、上杉氏の会津転封に従い、高梨頼親は中野を離れ館は廃城になったようです。高梨氏は江戸期は米沢藩藩士として明治維新を迎えました。

庭園跡      土塁
高梨氏館全景・後方の山は高梨氏の詰め城である鴨ケ嶽城
  
南西角から土塁と空堀
南面から南西角への土塁と空堀
東面土塁
東面の土塁と空堀
北面の土塁と空堀
主郭内庭園跡
主郭内庭園跡
北面土塁
虎口を郭内より
西面土塁
全景
南面土塁と空堀
中野陣屋 3991
 
@ なかのじんや  A住所:中野市中央2丁目−4 B目標地点:中野陣屋・県庁記念館
C形式:平城  D比高:ーーm E現況:県庁記念館・宅地 F遺構等:石垣・碑・説明板
G時代/人物:江戸期/幕府  H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:2分  J撮影・訪問時期:2023年12月


訪れたときは県庁記念館は改装休業中でなかに入れませんでした。^^; 今建っている洋館は昭和初期に建てられた元役場であるようです。陣屋の遺構としては県庁記念館の北から西側の石垣、井戸などです。井戸は見落としました。^^;

天領の陣屋として置かれていたものですが、最初、ここに陣屋が置かれたのは天正十年(1582年)以後、上杉陣屋として置かれたようです。 確実に史料として陣屋の存在が確認できるのは、元和二年(1616年)であるとの事です。享保九年(1724年)までに周囲の天領陣屋を統合して一元化され中野陣屋が約五万石の天領を管理したようです。明治三年(1870年)に中野県が設置され、この地が県庁となりましたが、中野騒動で焼失し、県庁は長野になりました。県庁としては10ヵ月であったようです。

説明板と碑     残存石垣
天領陣屋碑       県庁記念館

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